tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

MBTIのダイナミクス(MBTIを考える-4)

1.序

 以前の記事でも述べたとおり、MBTIの基礎理論が本来持っているダイナミクスは、心理機能という全く別の発想によって覆われてしまい、表に現れることがない。理論の提唱者自体がこの誤謬に陥ってしまっていることが厄介で、その問題点はMBTIを考える-1において既に述べているとおりである。MBTIにはその「四つの二分法」における特有のダイナミクスがあり、それは心理機能なるものがむりやり付け加えようとするものとは本質的に異なっており、本記事ではその考察を行う。 あるものを「直感」や「知覚」と呼んだり、「感情」や「論理」とただ呼ぶことは、それらを説明したことには決してならない。それらを対置可能なものとして一つの線上に並べたいのなら、ただ漠然と捉えるのではなく、実際にどのような機能的な差異として扱うのかを説明する責任がある。

 

2.心理機能の順序

 MBTIにおける性格とは、ある情報を処理する傾向であるといえる。ある情報を受容すると、それを特定の手段で処理し、結論を出し、反映させる。その過程にまつわる機能の傾向によって、その人の性格が決まる。故にそれぞれの機能は次の時間軸の上に並べられる。(手段→処理→決定→反映)

 ある情報に触れたとき、まずJかPという手段を使いSかNの方法で処理する。(J-P × S-N)それらをTかFの方法で決定したあと、IかEの方法で反映させる。という大まかな流れである。これらを具体的に説明することで、なぜその心理傾向が生まれるかが説明できる。

 

3.本来の心理機能

 JとPとの違いは、「過去と現在のどちらを根拠にするか」にあり、J型は過去の情報を元に現在の情報を扱い、P型は現在の情報を元に過去の情報を扱う。このように、J型は「過去のデータを現在の状況以上に重視して未来の予測を作る」。対してP型は「現時点で存在するものを過去のデータより重視して未来の予測を作る」。結果としてJ型は過去のデータを普段から重視し、それを集め自らの理論を強化しようとするだろうし、P型は現在目の前で生じている変化に思いを巡らせる時間が多くなるだろう。

 SとNの違いは、「情報処理をどの程度複雑に行うか」であり、言ってしまえばどこまで深く考えるかの違いである。S型は情報を即断する。故にSJ型は、情報を過去の例をもとに即断してしまう。良く言えば決断が早く行動的であり、悪く言えば浅はかで保守的である。また、SP型は、現在の情報(=予測)をもとに現在を即断する。つまり、「何となくそういう気がするから」という理由で即断してしまう。この傾向がSP型を全ての型の中で最も非理性的にする。対してN型はその情報処理に時間を取る。良く言えば物事を深く考え、慎重に行動することになり、悪く言えば考えすぎ、迷いすぎ、ということになる。

 TとFの違いは、「判断をどこまで決定してしまうか」ということである。本来全ての物事に確定的な結論を出すことはできないはずなのだが、T型は暫定的にであれ、全ての物事に白黒をつけなければ気がすまない。将棋で例えるならば、最善手を見つけなければ満足できない。一方F型はそれらに優劣や序列をつけるということには執着がなく、曖昧なまま保持しておくことができる。ゆえにT型の発想は、数学、科学、勝ち負けのようにはっきりと決まるものを好み、真理となるものが存在することを信じている。一方、F型の発想は白黒つけられるということを信じていない。T型が勝利したあとに「彼らより我々のほうが強いんだ」と浮かれている一方で、F型の人間は「勝ち負けをつけることに意味はない、勝ったからと言ってより優れているとはいえない」と冷めているはずだ。逆にF型が「この絵は美しい、あの絵も美しい」と眺めている側でT型は、「それで、どっちが権威ある画家の作品か?」「どちらのほうが美しいんだ?」「何の役に立つんだ?」などと、その絵をなんとかして決定しようと焦っていることだろう。

 EとIとの違いは、「判断をどのように反映させるか」にある。I型は自分独自のデータベースを構築するためにそれらの処理済みデータを活用する。新しい考えが生まれたときには、自分のオリジナルなアイデアとして見なす。一方で、E型はあくまでデータベースが所属する集団に共通のものであるように見做す。故に処理されたデータは、「すでに存在していたが、自分は未発見だったもの」だったかのように見做される。I型は自分の考えが、他の人の考えより上に来る一方で、E型において自分の考えは、全体的な考えの不完全な一部に過ぎない。だからE型はより多くの情報を集めることで、そのデータベースを出来る限り完全にしたいと願う。一方でI型は、人の考えは全て独立したものであり、人の考えに自分の考えを近づけたいと言ったような同調の傾向が存在しない。I型の論理的根拠は、自分がこれまでに具体的に経験してきた/考えてきた経験に基づく一方で、E型は「みんなが言っていること」の情報を集め、判断することで得たものだ。I型は自分の考えは集団的な正しさよりも正しいと信じている筈であり、一方E型は自分が集団的に(あるいは特定のコミュニティの価値観に沿って)正しいことを誇りに思っているだろう。

 これらの心理機能の「度合い」の組み合わせが、その人が情報を扱う方法を形成し、異なった価値観や判断へつながる。

 

4.複雑さという見方

 ここから先は余談だが、これらの心理機能には複雑さ/明快さという違いがあると見ることもできる。

 E型は価値観を周りと共有するため、穏当、浅はかな価値観に留まりがちであり、ゆえに明快である。一方I型は自分固有の価値観であり、周りと擦り合わせないため複雑になりやすい。

 J型は多くの意味合いで処理され切った過去を第一に頼るため明快であるが、P型は現時点で存在するもののため不安定かつ、より曖昧で複雑になる。

 S型は即断するため明快、単純でありN型は複雑である。

 T型ははっきり結論づけるため明快であり、F型は曖昧で複雑である。

 

 この考えを適用するならば、ESTJ型は最も確信に満ちていて、行動力のある性格型になるはずだ。他人から何を言われても「集団的な正しさ」を盾にできる強さがあり、自分がそれらの正しさに沿っていることに誇りを持ってもいる。

 そして同時に、INFP型は最も不安定だろう。自分自身しか頼りにできるものがない上に、物事について深く考えずにはいられないから優柔不断、しかも何が正しいのか確定させずフィーリングを頼りに曖昧なアイディアの間を彷徨っているし、まだ存在しない世界のことばかり考えている。

 これらは逆に言えば、ESTJ型は最も独自性がなく、集団的正しさに無思考で追従するロボットのようなものであるとも言える。指導者が優れているときには優秀な兵隊になれるだろうが、同時にヒトラーの手先としてユダヤ人を虐殺することだって正しいと信じて厭わなかっただろう。

 そしてINFP型は、物事を最も深く考える型であり、イギリスの詩人キーツの言葉を借りるならば、「曖昧さ、謎、疑念の中にいながらも、事実や理由に飛びつかないでいられる能力」を持った最も深遠な性格型であるとも言える筈である。

 

5.結論

 このダイナミクスを適用すれば、MBTIの四つの二分法がどこまで性格を捉えられるか、またどのように捉えられるかを説明できる。実際的には、これらの発想を軸に実在する人間やキャラクターからそれぞれの性格型の典型を見つけ、自分の中にESFJといえばあの人、というような基準を作っておくのが、現実世界でMBTIをインスタントに活用するのには役立つのだが。

 

おまけ

 SとN、JとPはえてして自己判断や他者の診断において間違われやすい。しかしSとNはどのくらい彼の思考が単純か?を見れば良いし、PとJは常識的なしっかりものか、それともいい加減な自由人かを考えてみよう。

xNxP ー 複雑な思考回路、可能性を追いかけ続ける、一つの事を成し遂げられない、未来志向、現実的な達成というより果てしなく高い理想を実現したい

xNxJ ー 複雑な思考回路、自分の結論/判断に絶対の自信、未来志向、目標を達成しないと意味がない

xSxP ー 単純な思考回路、適当、知性を感じない、自由、自分に常識があると思っているがポンコツ

xSxJ ー 単純な思考回路、常識的、既存のルールを忠実に守る、頑な、既存のルールを妄信、頼れる (しっかりもの、かつ既存の考えを取り入れるので勉強も得意であり、一般的に「頭が良い」と見なされることも多いが、融通が聞かず、それらの応用や発展は苦手であり、思考回路は単純だ。)

 

 

僕の好きな曲

 トムシッチのベルスーズを見つけたのは先週だっただろうか。この世にこれほど美しい曲があろうかと思った。この曲はもともと好きだったが、いまひとつこれぞという録音がなかった。トムシッチの演奏を見つけたとき、それが変わった。

 

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 名曲には名録音が必要だし、探せば案外あるものだ。僕が大好きなK.282のアダージョを初めて聞いたときは誰の演奏だっただろうか?今となってはエッシェンバッハの録音とこの曲の存在はぴったり重なってしまっている。この曲は僕が好きな曲の中でもっとも音符の数が少ないと思う。モーツァルトはK.400番あたり以降に名曲が集まっているが、その中のどんな曲より僕はこのアダージョが好きだ。

 

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 好きな曲があって、録音を聴いているうちに素晴らしいものを見つけるのが常だが、逆に録音を聞いたおかげで好きになった曲もいくつかある。そのうちの一つはチェリビダッケによる「海」だが、僕が本当に挙げたいのはブルーノ・ヴァイルによる「グレイト」だ。この録音を聴くまで、僕はシューベルトのような天才がこんな駄曲を死ぬ前に残すものなのかと信じられなかった。

 

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 ブルックナー第四番の第三楽章、第四楽章のすばらしさに気づいたのは最近で、実演で第七番に触れて第二楽章で泣きかけたのは数年前のことだ。だが一番好きなのは第八番で、一番好きな録音は賛否両論のあるクレンペラーの録音だ。この指揮者の演奏はいつでも、ハッキリした演奏なのに、まったく図太さを感じさせないのが不思議で仕方ない。

 

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 僕はモーツァルトシューベルトブルックナーが大好きで、うっかり忘れてしまうが、大好きな曲を考えると、バッハの曲が、それもバッハのオルガン曲ばかりが思い浮かぶ。その中から一つ選ぶことさえできないが、演奏者はカール・リヒターを差し置いて、ヴァルヒャを第一に選ぶ。

 

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催眠とは何なのか?

 バラエティ番組を見ていると、エンターテインメントの一種として、催眠が取り上げられることがある。若手芸人が空気や流れを読んで、催眠にかかったふりをしているのならともかく、そんなことをしそうにない人さえも一見、「本当に誰かの言いなりになっている」かのような現象を見せることがある。

 普通の頭を持っている人なら、この催眠現象というものはいかにも怪しいものだと思うだろう。多くの人は、あんなのはうさんくさい嘘で、本当にかかっているわけではないのだろうと推測するだろうし、これを書いている私としては、多くの人が催眠現象というものを、本能的にはそういう見方で否定的に見てほしいし、そうするのが自然だと思う。ああいうものを見て、すごい!あんな奇跡みたいなことが起こるんだ!と鵜呑みにする人はよほど心配である。

 だがしかし、催眠状態というのは存在する。それは、自然な心理状態として存在し、そしてバラエティ番組で見られるような催眠は、その自然な心理状態を人為的に、そして限定的に作り出したものだと言ってよい。

 催眠状態とは、果たして一体何なのか?を一言で表すならば、「自分の願望を表現するための言い訳を得た状態」である。有り体にいえば催眠とは、催眠をかけられた人、その人が、普段は恥ずかしくて言えないようなことややれないようなことを、「自分は催眠にかけられているから」という言い訳を使って演じるものである。ただし、それは普通の演技とは違い、「自分は演じていない」という前提のもとに生まれるのである。

 TBSのバラエティ番組「水曜日のダウンタウン」では、たまに催眠が取り上げられる。その中にとても良い例があったため、ここで例として挙げさせてもらう。

 漫才師の「おぼんこぼん」は、十何年にもわたり不仲で、その二人を仲直りさせようという企画が番組内で組まれた。その一貫として、催眠を使えばそれが可能なのではないか、と試みられたのである。

 結果は失敗だった。催眠がもし本当に、誰かを思い通りに動かすためのテクニックだとしたら、それはうまくいったはずである。しかし大前提として、催眠は「催眠がかけられる人の願望を解放させるもの」だから、その人がやりたくないことはやらないのである。だから、人前で馬鹿なことを心の底からしたくない人のように、催眠が全くかからない人も割合としては大勢いる。

 催眠に近いものとして洗脳がある。この二つはどちらも、かけられる人の願望に関係している。催眠が、「ある人の願望を気持ちよく解放させてあげること」であるのに対して、洗脳は「ある人の願望を都合の良い方向へ書き換えること」である。それは洗脳しようと思うと、より長い時間がかかることの理由でもある。

 儲けを目的としたカルト集団の多くは勧誘のために人の願望を利用している。病気を恐れるがん患者や彼女が欲しい独身男性、子供が成人したあと、人生の目的を失った主婦などが狙われやすいのは、その願望があまりに分かりやすいからだ。

 催眠状態は、心のガードを下げるという意味で泥酔状態に似ている。レモンが甘くなる催眠、辛く感じなくなる等もあるが、我慢すれば平気で食べられるレベルだから成功するのである。

 もともと人間は、「レモンは酸っぱいもの」「唐辛子は辛い物」という既成概念に大きく影響されているため、多くの場合、必要以上にそれらを過大評価しているから、必ずしも明らかな催眠状態に入っていなくても、例えば「これはあまり辛くないカレーです」「こっちのほうが辛いカレーです」と言われて出された同じ辛さのカレーを、違う辛さを持ったものだと思い込むことがある。催眠はそういった人間の性向を利用しているのであるとも言えるだろう。

 結局のところ催眠は、心の中で「そうであると信じたい」と思っていることを、他人に後押しされることで、都合の良い思い込みを増していけるというものである。気持ちよくなってくる、と何度も言われているうちに、気持ちよくなれるかも、と思うのである。残念ながら催眠はそれ以上のものではないのである。

 また、それに対して洗脳は、例えば「お前は死んだほうが良い」というような、本人の願望に背くことを何年にも渡って言い続けるのである。そのうち、死んだほうが良いのかもしれないと思い始めるのである。

 催眠術界一の大御所、ミルトン・エリクソンは、普通の話をしながら、だんだんよくわからない話をし始め、「よく分からないけどたぶんそうなんだろう」と思わせることで、聞いている人を「理由なく元気づける」ことが歴史的に巧みな人物だった。具体的な理由をあげて、「こうこうこういう理由だからあなたはうまくやっていけるんだよ」というアドバイスを「指示的療法」などと呼ぶが、こういったアドバイスにはしばしば、「でもこうこうこうだからだめじゃないか」といった理由づけによる抵抗が生まれやすい。催眠では「具体的な内容を理解させない」ことで根拠なく人を元気づけることができるから、こういった抵抗が生まれにくいという利点がある。

クリストフ・エッシェンバッハ

 モーツァルト短調を聴いて、モオツァルトのかなしさは疾走する、という有名な言葉を残した批評家がいる。モーツァルト短調がたまらなく好きだという人は少なくない。でも僕はモーツァルトの本質は、短調の痛切さにはないと思っている。

 K.533/K.494という二つの作品番号を持つモーツァルトピアノソナタ第18番は、最初の二楽章と最後の楽章とで作られた時期が異なっている。それゆえに批評家たちはこのソナタに批判的で、恣意的にとって付けられたように見える第三楽章は、その前の二つの楽章に比べあまりに単純すぎるとみなされる。

 だがしかし、そのロンドを聞いてほしい。なんて音数が少ないのだろう。右手で素朴な旋律を奏で、左手では単純なパターンの分散和音で伴奏をつけているだけだ。それなのに、グラスの水にインクを一滴垂らしたかのように、どうしてこれほどまでに広がるのだろう。

(Eschenbach - Mozart, Piano Sonata K.533_K494 in F Major - III Allegretto (K494))

 モーツァルトのかなしさの疾走を見るよりも、僕はモーツァルトが産み落としたいくつかの素朴な小作品を聞いて、その温かさに驚く。かなしさは、喜びは、楽しみは、苦しみもまた、複雑な感情の交錯を経たのちに、小さく白い卵のような作品になってぽとりと産み落とされたときに、その奇妙な単純さを持って本当の姿を見せるように思う。

 ロシア人がモーツァルトの曲を初めて聴いて、この曲は子供が書いたのか?と馬鹿にしたというエピソードがある。難しい和音や複雑な技巧で圧倒する楽曲と正反対に、ぎりぎりまで減らした音数、そして分かりやすい言葉で話しかける。腕力で聴くものを圧しつけ、実力で分からせるベートーヴェンのような作曲家と対照的に、モーツァルトの音楽は、全く威圧的でない。モーツァルトがクラシックという腕力の世界でしかし神のようにあがめられているというのは奇跡的だ。まるで難解な純文学の中に、絵本が紛れ込んでいるようなものだ。

 エッシェンバッハのピアノは、教科書通りの丁寧な演奏だとか、整った端正な演奏だと表現されたりしている。でも僕は違うと思う。その演奏は異常な自制とすら言いたいほど、不可解に抑制されている。しかし抑制すればするほど不思議に香り立つ。その演奏には色がない。喜びもなく、悲しみもなく、楽しみもなく、苦しみもない。それなのに、そこには喜びがある。悲しみがある。楽しみがあり、苦しみもある。それらが褒められるわけでもなければ貶されるわけでもなく、許されるわけでもなければ叱咤されるわけでもなく、夢を見るわけでもなければ現実の重さを背負うわけでもなく、ただそこに転がっている。エッシェンバッハには、グルダのような洒脱もなければ、内田光子のような重厚さもない。しかし、その抑制すればするほど光り輝く不思議な性質は、何色とも例えがたく、ただまっさらで素朴なモーツァルトの本質と一致している。

愛されることの意味上の不在(2023.06.25)

 それは誰々だと具体的に名指しできる他者を、「個別の他者」と呼ぶ。だれだれさん、に話しかけるときは、立場や、関係、その人の知能の程度の考慮などによって、他の人と話しかけるときとは内容が異なってくる。もしその会話に、誰か別の人が割り込んできたとすると、また割り込んできたその第三者、つまり個別の他者に対して「△△さん、これはこういうことです」と、別の水準の会話を始めることになる、そうして、またひとつの第三者的な閉鎖が生じ、また、そういったある社会的反復が行われることになる。

 しかし本当のことを言うならば、すべての会話はいつでも、目の前の他者を想定してはいない。あくまで言葉はまず、想定上の第二者へ向けられる。しかし実際上では、その第二者との関係によって生まれたはずの対話は、真っ先に具体的な個別の名前へ逸脱してしまう。これは対談が抱える問題としていつでも明白に現れており、同時に多くの場合甘く無視されている。別の方角へ向かうはずの発言が、その応答において全く向かうべきでないところへ連れ戻され、またそこから発言し、また引き戻されというすり合わせにおいて、ある関係に囚われてしまう、それが対話というもので、同時に対話の無効性というものだ。

 その個別性というもの、それは立場や役割の問題において実際生活においてはなかなか切り離すことができない。その不可能性において、言辞は個別的な他者に対する発言と、そうではない、なにか「純粋な聞き手」、つまりどんな発言に対してもつねに一定の濃度で想定されるところの他者、「第二者」に対する発言とが混同された水準で話すことになる。本来は「目の前の他人」とは全く関係のない次元で発された言葉は、関係のなかの真理に縛り付けられ、向かうべき矢は関係の重力に引きつけられ、地に落ちる、だから的を射ることがない。

 このことをドラマチックに言い換えるならば、目の前の他人を意識した、関係的責任を負わずに発言された語りだけが的に向かう、本来的には有意な語りでありうると言える。有意な語りとはなにか。話すことの難しさが、誰か具体的な人間に対する、所謂「説得」の難しさと混同されないこと、それ自体の難しさにおいて対面されることが可能になる語り、それが有意な語りというものだ。

 対話は成立しない。それは理解力の足りない誰かのせいでそうなるのではなく、原理的に、対話というものは不可能なのだ。対話におけるすれ違いを、ときに意識的に覚えながらも、なぜそれに固執し続けるか、それは、自分というものを対象化する重要さにおいて重要だからだ。対話が成立していると信じられる間は幸運だ。なぜなら聞き手は「第二者の語り」を享受できるからだ。

 自分自身の「語り」が、いつでも目の前の他人とは全く関係のないところで生まれ、しかしその他人へ引き付けられていくのと同じように、目の前の他人、の語りも「私」へ向かって放たれた矢ではない。しかし「私」はそれをありがたく頂く。ときには受け取りたくないのに、しかし受け取る。なぜなら、聞きたくないようや言葉も含めて受け取らざるをえない不快感以上に、そこに存在する本質的なずれ、つまり根源的な誤解の存在を認めることのほうが恐ろしいからだ。

 そして「個別の他者」の語りは、不思議なことに、「第二者」の顔を持ってその場に訪れる。なぜなら、「すべての会話はいつでも、目の前の他者を想定してはいない。」という事実は、言葉を発する場合だけではなく、言葉を受け取るときにもまた不変だからだ。そうして人は現実的には個別の他者だけと関係し続けながら、実際的には常に同じ「第二者」とだけ関係し続ける。「個別の他者」との関係としては、つねに「第二者への意識」による変形が生じているし、「第二者」との関係としては、「個別の他者へのすり合わせの意識」による変形が生じている。

 愛とは、あくまで第三者として現れる「個別の他者」の集団の中から、すり合わせの意識さえ不要になるような、「第二者」との徹底的な重ね合わせが可能になる関係を見出そうという強い意志のことである。それはいつでも、ある一人の「個別の他者」を、それ以上不可能なほど過大評価することである。

 「第二者」は、常にそばに存在する者のことだから、個別の他者を第二者と重ね合わせることは、その程度が具体的にどれだけ妥協を被るかを問わず、本質的に独占を要求する。しかし先に述べた通り、すべての「個別の他者」は、それぞれ別々の論理で生きており、すり合わせの意識によってかろうじて関係を保っているにすぎないから、第二者の衣装を着せるには、あまりに不確かすぎる存在なのだ。

 愛とは独立した個人同士がいまだ存在していない関係を創造する関係ではない。そうでなく、すでに存在する、役割の枠組みとしての関係に、自分自身と、ある一人の個別の他者を当てはめようという関係なのだ。それは枠組みの絶対性に従って、「絶対的な関係である」と信じられるが、他者というものの個別性に従って、実際には常に「取り換え可能な関係」なのだと言える。

 愛における発言はしかし、結局のところ、目の前の他者への意識をそらすことができない。だから結局それは、第二者との本質的な対話を実現することにはならない。本当の対話は、目の前の他者がその発言を理解するかどうかなど、本当に考慮せずに語るところでしか起こりえない。関係意識を捨て、「うっとり語る」ということだけが、本当に表現されるべきだった言葉を産出しうる。

 それと同時に、「うっとり語る」という最大の可能性は、「うっとり聞く」という対照的な行為の不可能性を確定させる。なぜなら、第二者は語ることができないからだ。この世における真実とは、個別の他者の語りの中から第二者の語りを見出すことではなく、個別の他者の語りの中に、第二者の語りは存在しないことを知るということなのだ。第二者の語りを聞くと言うことはすなわち、第二者の語りの無意味さを知るということだ。愛における最大の有意味と言える、うっとりと語るということには、意味の内部にはどのような返答もありえない、というのが、愛における究極の真実と言えるだろう。そして愛する者の『意味上の』不在が、関係意識を取り除かれた廃人の世界を決定する。彼はしかし、言語が可能性として保持してきたロマンスの次元をそうして無化され、ロマンスと違った論理を持つ価値の世界、いわば本能の世界へ還俗することになる。愛するものへの語りは最も充溢した意味を含んでいるのに関わらず、それに応答するものは最も意味から遠いもの、何故と問うても理由が説明できないものに限られる。そこには、言語は言語によってのみ内的に支えられるばかりであるという言語の限界がただただ露骨に現れる。

 第二者を意味的に空しいものとして見る(故にそれは最大の価値を示す、なぜなら意味と価値とは全く反比例するからだ)ということこそが愛の究極ならば、個別の他者のなかに第二者を見ると言うことこそ、最も罪の重い犯罪であるともいえる筈だ。そしてまた、ある意味では「愛する者の意味上の不在」が前提となったとき、初めて実際的な他者、個別の他者との関係が実現し始めるということが言えるだろう。言葉が存在する限り、「うっとりと語る」ことは免れ得ない。しかし、「うっとりと語っている」自分へ意識的である限り、個別の他者との関係が汚されることはない。なぜなら「うっとりと語る」最大限の有意味は、愛するものの意味上の不在によって、結局のところ全く意味を持たなくなるからである。

 そして同時に、個別の他者も結局のところまた、何も語ってはいないのである。なぜなら、「第二者」、つまり愛するものの言葉を、その中に探しうるという信仰にだけ、「個別の他者」の語りには意味がありえたからである。実際は「第二者は語らない」のだから、「個別の他者」の発言とは、無限に量産されながら、その中にほんのわずかの価値ももたない、いわば針のない干し草の山のようなものだ。それこそが対話の本質であり、つまり先に述べた通りの、対話の無効性というものだ。(要するに言葉の、意味の、行き着く先は「ただ価値なのだ」というつまらない現実へ落ち着くだけなのだ。何万もの単語を何京通りの組み合わせ方で知恵として表す賢者の到達点は、日向でグルーミングする雌ライオンのたどり着くところと変わらない。)

 もし個別の他者を完璧に見通すことができるならば、愛の可能性は容易に破壊されるのだが、いくつかの主要な理由において、他者を見通すということは阻害される。愛とは無知に由来して菌類のように手の届かないところで繁殖する。異性愛はその代表であり、つまりは自分と異なるものに無知であることのたやすさに由来するといえる。そして同時に、異性愛が愛の絶対条件ではないということも。

 愛の条件のひとつになる「美しさ」という条件もまた、「美しさ」というものに対する無知に由来する。多くの人は、美しさを知っていると思っている。あれは美しく、これは美しくないと区分できるからだ。しかし実際は慣例に従い、周りの人に見よう見まねで、あるいは本能的直観で、美しさを分別しているだけで、美しさとは実際的に何で、どうして価値があるのか説明することはできない。美しさが幅をきかせているのに、なぜそうなのか説明できない。その事実への困惑を、人はつねに抱え続けている。無知が不安を呼び起こし、それを手に入れようと欲する性急さに繋がっている。

 一言でいえば、愛は他者という謎に宿る。さらに「愛するものとしての愛は存在しない」という命題をここで真として持ち出すならば、愛とは、「愛される謎」との関係に他ならない。そして、ここで一種の答え合わせをするわけだが、「愛する者の意味上の不在」と言っていたものは、本当の言葉で言い直すならば、「愛されることの意味上の不在」である。「愛される」という謎を解くための苦闘が現実世界での関係であり、「愛される」ということ、またその謎自体がそもそも、言語という構造の中には欠けている、ということが愛の、というよりも言語の真実である。

 しかし他者は依然謎として残る。どれだけ知ろうと志しても、他者は大なり小なり謎として残る。「他者とは謎である」。謎が大きければ多いだけ、愛は菌糸のように蔓延ってしまう。ただし、それを欲望と勘違いして、闇雲に欲しがっては関係に浸ろうとすることと、愛の原因を自分の無知と理解することの間には大きな差異がある。

肉を食らうヴィーガンは有り得る

Wikipediaヴィーガニズムの項目に、その始まりについてこう書いてある。

>イギリスのヴィーガン協会(英語版)の初代副会長だったレスリー・クロスが1951年に寄稿したエッセイで、それまで曖昧であったヴィーガニズムの概念を「人間は動物の搾取なしで生きるべきであるとする主義」と定め、「食物、売り物、労働、狩猟、実験およびその他のあらゆる用途の為の人間による動物からの搾取を終わらせる」ことを目的に「個人的な状況が許す限りこの理想に近い生活をすることに努めている人」をヴィーガンとしている。

この「提唱」における明らかな誤謬は、動物からの搾取を終わらせるという目的と、その理想に近い生活に努めるということに何ら実質的な関係がないということだ。率直に言わせてもらえば、「お前一人が肉を食おうが食わまいがこの現実には何ら影響を及ばさない」という事実への否認が、この類の跳躍にはあり、そして全ての「党派性的発想」にある。

本来、社会が想定する個人と、個人として生活する自分自身とは全く違う水準でのみ捉えられる。社会は個人を道具のように扱うが、個人は社会を道具のように見做す決定的な対立がある。だがこれは決して「自己矛盾」ではない。二つの視点から見た個人を「自己」という同一のものとして見做すことの誤謬に他ならない。宮崎駿は「風立ちぬ」のような映画の中で戦争に反対する自分と戦争の道具である戦闘機を愛する自分との相容れなさについて露骨に描いているが、戦闘機を愛することの契機は宮崎駿という個人の歴史の中に見いだせるのであって、それが人類全体という歴史から見出されるものと一致する約束などどこにも無いのだから、それらを別のところから得てきたものとして捉え保持すること自体にどんな不正もないのである。

それは自分の飼っている猫をこよなく愛する人が、中国で猫肉を食べてみることにどんな異常さもないのと同様であり、我が子の死を自らの死のように感じる母親が、遠いアフリカで起こっている幼い子らの飢餓や大虐殺に無関心なことも、けして非難されるようなことではないのと等しい。むしろ、自らが愛犬家であることを理由に世界中の犬を守ろうとすることや、自らの子供を愛していることを理由に世界中の子供に同等の愛を注ごうとするとき、それらの物事の次元の違いを無視したり混同したりする病的な態度が現れる。キリストが、己を愛するがごとく、汝の隣人を愛せと語ったとき、それは詩としては美しいかもしれないが、真に受けるにはあまりにも突飛すぎる。

ヴィーガニズムが根幹として掲げる「動物からの搾取を終わらせる」という目的と、「動物から搾取しないような生活を送る」ということは、けして表裏一体のものではなく、その片方だけを遂行することは全くもって可能である。動物からの搾取をなくすために、人工肉の開発に勤しみながら、ディナーにステーキを食べることは、けしてその目的意識から矛盾していないし、動物の命なんてどうでもいいと思いながら、肉の味が嫌いで野菜や果物しか食べないこともただただあり得るとしか言いようがない。そしてヴィーガニズムに勤しむ多くの人は、ただ偏食で肉を食わない人たちと――崇高な目的意識を持っていたとしても――やっていることは変わらないのである。ここで書いた問題意識は、けしてヴィーガニズム云々を批判するためのものではなく、そういった党派性意識の中に容易に紛れ込む誤謬そのものにある。その代表例として見ることができるヴィーガニズムの幼さは、つづめていえば、そこらへんのただ肉を食らうことをやめたヴィーガンより、人工肉を開発する雑食人間が、その本来の目的に何十倍も貢献していたとしても、その後者を排斥しようとすることにある。

論理をやや行き過ぎなところまで推し進めて私感をここに書くならば、党派性はいつでも、社会的意義を振りかざしながら、本当はそれに違和感なく足せるような具体的態度の方にこそ執着しているように見える。つまりヴィーガニズムの場合は、動物から搾取するのを無くしたいんだ!という聞こえの良い意義を振りかざしながら、本当はそれ自体にはさして興味がなく、動物から搾取することをやめた自分という理想像に自らを一致させることの喜びこそ、彼らの本来の動機なのではと思わされる。

さらに言うと、社会的規範は個人がどのような生活を送るかについて示唆や誘導することはできても指図することはできないし、それは極端な話、どのような犯罪についてもそう言わざるを得ないということである。犯罪を犯すためには犯罪を犯すための経緯がその個人の歴史の中に必ず見つけられるのであって、どんな願望や理想で覆い隠そうとしても、そういった「契機」というものは、社会的規範などというものとは本質的に全く別のところから来るものだというのが事実なのであり、全くもって同じ次元で考えて良いもの、考えられるものではない。

ヴィーガニズムというものの定義を最初に引用した提唱に拠るならば、そこには二つの全く無関係の主義が共存しており、そのどちらが本当に追求したいもの、するべきものなのかをはっきりとさせない限り、そもそもとしてまっとうな主義とはならない。なぜならばそれらが全く別なものである以上、どこかで衝突することがありえ、どちらかを選択する契機が訪れ、そのどちらをも絶対的なものとするならば決定的に矛盾しなければならなくなるからだ。

女性の享楽は存在しない

 女性の享楽が存在しない、性関係は存在しないのは、それは男性の想像に過ぎないからだ。このことはただただその次元がいかに自慰的であるかを意味する。「性関係」を描写するためには、二者関係を思い浮かべるよりも自慰行為を思い浮かべるほうがずっとその本質に近い。そして、それは女性の享楽は男性にとって想像的である、不可知であることを意味するわけではない。なぜならそれは女性にとっても想像的で、不可知なものであるからだ。むしろ女性自身にとってそれは、男性にとっての想像的なものへ同化すること、演ずることにあるから、女性にとって「女性の享楽」は、顔色をうかがうような、より遠い次元に存在する。

 つづめていえば「性関係」とは、女性が男性に屈し、男性が生物的与件に屈するところの想像的関係であり、さらにいえば、男性が生物的与件に屈するところの論理を、女性へ屈することへすり替えることから生まれる円環構造である。このような記述は、フロイトがそう誤解されたように、男性優位的な思想と取られるかもしれないが、この構図はあくまで「性関係」という男性が描く想像的な次元における男性と女性の立ち位置を表していることに注意したい。男性の思い描く想像的な次元において女性が主役でなく脇役に位置するのは当然である。そして、先に述べた通り、女性の享楽というものは、女性自身にとって一次的なもの、本質的なものとしては存在しえない。あくまでこの想像上の舞台で、「女性は演技する」ものだからだ。

 その劇場が劇場であるからして男性ももちろん演技をするが、その劇のなかに見出すことができる演技ではないもの、真剣なもの、切実なもの、それは本質的には男性の側にしかない。女性が性関係に参加するのは、性関係に本質的でない、外部の動機によっている。規範的な性関係は、基本的な想像――というよりも信仰――女性の享楽が存在すると信じる次元で取られる態度により、マゾヒズムは性関係における女性の「演技」を見抜いてしまい、もはや女性の享楽を信じられなくなった次元で生じる。つまり原始的な性関係は「女性の享楽を巡る」想像的関係であるのに対し、マゾヒズムは、男性が生物的与件に屈している実際を女性へ屈しているという想像にすり替えた地点で、「ファルスを巡る」関係である。

 女性の演技を真実と信じられている限りでの性関係(ここで規範的な性関係と呼んでいるもの)は、女性を喜ばせるということが目的になる一種のゲームであるが、その演技性を見抜いてしまったあとには、男性は女性に性的に打ち勝つことができないという屈服の段階に移行する。女性というものは結局のところ演技を通してしか、男性による想像的な性関係には参加できないのだが、マゾヒズムにおいては、女性が演技しているという事実が、そのゲームそのものを破綻させることがない。要するに、マゾヒズムにおいては女性が演技しているということは前提にさえ据えられる。演技する女性に、弄ばれ、屈服するという構図が、マゾヒズムにおける性関係の描写であるということになる。

 規範的な性関係の破綻は女性の演技を前提にし、女性の享楽というものは存在しないと気付く二段階の移行の後に生じるが、マゾヒズムの破綻は、生物的与件という謎、底のない深淵と対峙することでしかありえない。本能的に欲求するもの、それを「取り上げられている」という想像が、結局のところ、先に述べた「生物的与件に屈するところの論理を、女性へ屈することへすり替えることから生まれる円環構造」を生じさせ、男性が創造する「性関係というもの」を支える。この想像を成立過程から追っていくと、マゾヒズムのほうが、規範的な性関係よりも、本当の意味では「基礎的なもの」であることがわかる。性的対象の措定において、初めは身体の部分から、次第に服飾品などへ触手のように手を伸ばしていく過程こそ、結局のところ「本能的与件を女性へ屈することへすり替えること」に他ならないからである。

 (そして女性にとっての不幸は、男性が世界との紐帯を築くために拵えた想像的関係を借用する形で、世界との紐帯を築き得てしまったこと、しまっていることにある。女性が男性より客観的に世界を見たり、演ずる形で人と関係する、いわば大人びているのは、世界との想像的な関係を、主役としてではなく築いているからである。そしてホモセクシャルの男性についてもまた、同様のことが言える。)