tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

夏はガムを噛む男で

僕らは洗濯物を干す女

彼に水を飲ませてやったのは遠い過去のこと

いまベランダで同じ時間を過ごしている

 

夏は僕らより遥かに頭が悪くて

二の腕は普段の労働でたくましい

どうして2tトラックの巻き上げた砂埃が

二階のベランダにまで届いてシーツを汚すのか

 

空は青い

 ずっと戦時中のようだ

 僕らは戦争の恐ろしさを知らないのに

 

空は低い

 ずっと死んでいるみたいだ

 僕らは死の恐ろしさを知らないのに

 

八十年の人生よりは

一日のほうが永遠に近い

女はまるで痴呆になった気がして

つわりのような吐き気を催すのだが、

 

朝霧のかかったオリーブ畑の、かなたに浮かぶ人影よ、

夏は煙草を吸う男で

のどが渇いた、

僕らは女、夏に憑かれた

秋に寄す ジョン・キーツ

霧と豊満な実りの季節よ
 熟れてゆく陽の旧き友よ
かやぶきの軒を這うブドウのツルを
 どう唆し実らせようか
庭の苔むした樹々の枝を
 芯まで熟した実りでたわませ
  瓢箪を膨らせ ハシバミを
 甘い実で肥やし もっと芽吹かせて
ミツバチのために花を咲かせよう
ねっとりした蜜に満ちた巣で彼らは
  ずっと暖かい日が続くのだと思うだろう

豊作の日にはどこにいても君がいる
 誰だって少し出歩けば見られるはずだ
穀物倉の床にぼんやり座る君の髪が
 もみ殻とともに柔らかく吹かれるのを
半分刈られた畝の上でケシの妖しい香りに誘われて
 ぐっすり眠り込んでいる君の鎌が
  次に刈られる一列の穂と絡みあう花々をまだ残しているのを
それとも落穂拾いのように
 実りをしっかり頭に負って小川を渡る君を
  あるいは林檎酒の搾り機をじっと見つめて
   最後のしずくを何時間も待つ君を

春の歌はどこかへ消えたが
 君には君の音楽がある
やわらかく死にゆく日に幾筋の雲が引かれ
 すっかり刈られた野にバラ色がさわる
悲しげな歌声で悼む羽虫たちが
 川辺の柳のそばで生まれては死ぬ
  風に合わせて揺蕩っている
丘の境で肥えた子羊が大声で鳴いている
 垣根で蟋蟀が歌い 小庭のコマドリは
  やわらかに透んだ高音でさえずり
   旅支度を済ませた燕たちが上空でさわぐ

目の見えない者を探しに行こう

 なんて不細工なんだろう

 君は

 きっと誰も君のことを愛さないだろう

 きっと

 目の見えない者を除いては

 

 目の見えない者を探しにいこう

 この世界にはいろいろな人がいるから

 

 目の見えない者を探しに行こう

 この世界には目の見える人などいないから


 だから 
 目の見えない者を探しに行こう

性関係について、欲望・選択・他者

1:欲望の発生論

A. 先天的衝動

欲望の発生根拠は自分で構築できない。文化や価値観以前に存在する衝動であり、生物学的・神経学的な基盤を持つ。「望むべき理由がない」という認識と「それでも欲する」という事実が解消されないまま並列して存在し続ける。これは自己断絶の問題である。自分が何を・なぜ求めているかを自分が知らないという認識論的な不透明性であり、先天的衝動は価値観・理由・意味の言語の外側で発生し続ける。

B. 後天的価値観による方向付け

文化・社会・経験を通じて形成された評価枠組みが、欲望の発生ではなく方向付けと正当化に関与する。衝動は価値観によって方向付けられるが、価値観によって発生するわけではない。また、Bを通じた変性にも自分にとって理由が説明できない領域がある。こうした自己認識の限界が「理由なく欲している」「合理的に考えれば諦めるべきなのに欲している」という状態を生む。

2:他者関係論

C. 選択性

欲望は対象との相互的な選択関係を要求する。自分が対象を選び、対象が自分を選ぶという相互性が欲望の構造に内在している。他者の選択は恣意的なものであり、予測誤差を孕むものである。選択の基準として仮定される他者の欲望は、自分にとって直接経験されるものではなく、社会的評価枠組みとともに個別の発話・行動・選択履歴から推定されるパターンとしてのみ現れる。そのため他者の選択は完全な無秩序ではなく傾向を持つが、実際的には不可知性を持つ。これは、自分自身の欲望が内的に発生しながら根拠を開示しないという不可知性とは異なり、外部に属する主体の選択が観測可能なパターンとしてしか与えられないという形態を取る。

肉体関係・婚姻はこの選択性を確定はしないが象徴する。象徴的確定が成立した場合、他者の獲得は単なる獲得ではなく選択的関係への先占として知覚される。交換不可能性バイアスが強いほど、この先占の知覚は強化される。

 

D. 獲得後の維持コスト

対象を獲得した場合、欲望は終了するのではなく、獲得状態を維持するためのコスト・難易度との関係に移行する。獲得前の欲望が「接近・獲得の困難」によって強化されるのに対し、獲得後の欲望は「維持の困難」によって再編成される。

肉体関係・婚姻・交際などによって選択性が象徴的に確定しても、他者の選択は固定されない。他者はなお外部の主体であり、再選択・撤回・離脱の可能性を持つ。そのため獲得は完全な所有ではなく、継続的な選択関係の一時的成立として経験される。

維持コストが高い場合、対象は依然として「失いうるもの」「努力し続けなければ保持できないもの」として現れる。このとき欲望は弱まるとは限らず、むしろ交換不可能性バイアスを通じて強化される。維持に要する時間・感情・経済・社会的リスクが大きいほど、「これほど維持しているのだから、この対象には価値がある」という事後的正当化が働く。

一方で、維持コストが低く、他者の再選択の不確実性も低く知覚される場合、対象の希少性・緊張・不可知性は低下しうる。この場合、欲望は安定化するが、覚醒としての強度は低下しやすい。

したがって獲得後の欲望は、単なる満足/飽きではなく、維持の難易度・喪失可能性・投資量・他者の再選択可能性によって規定される。

 

E. 代理満足と同一化

他者が自分が欲するものを獲得する場面に対して、喪失と同時に他者への同一化による間接的満足が発生する。同一化とは、他者の経験を自己の経験として内側から追体験する心的プロセスである。「あの人が得たものを、自分もある意味で得た」という感覚がこれにあたる。スポーツの観戦者が選手の勝利を自分の勝利のように感じる構造と同型だが、欲望の対象が絡む場合、喪失の感覚と同時に発生する点が異なる。

この同時発生の条件は、対象が自分の欲望の対象であることそのものにある。欲望していない対象を他者が獲得しても同一化は起きない。自分が強く欲するからこそ、その対象を獲得した他者の経験が追体験可能なものとして内側に侵入する。欲望の強度が同一化の回路を開く。

例として神経科学研究はミラーニューロン系と呼ばれる神経回路網を同定しており、他者の行為を観察する際に、自分がその行為を実行しているときと同一のニューロンが発火することが確認されている。この共有神経回路網により、他者の行為・感情・感覚が、自分自身がその同じ行為をしているか感情を経験しているかのように処理される。さらにミラーニューロンは感情的・内臓感覚的に帯電した代理反応を観察者の中に引き起こすことができる。

焦点は「他者を通じた自己の充足」にある。喪失と満足が同一の出来事として共存し、分離しない。選択性の象徴的確定が成立している場合、喪失の不可逆性の感覚が強化される。交換不可能性バイアスが強いほど、同一化による満足と喪失の感覚が同時に増幅される。

F. 屈辱と興奮の共存

「他者が自分が欲するものを獲得する」という事実そのものが、自分の無力の確認(屈辱)と、対象の価値の再確認・他者の優越への反応(興奮)を同時に引き起こす。屈辱は自己の劣位の確認であり、興奮は対象の価値と他者の優越が同時に可視化されることへの反応である。

両者が同時に発生するのは、他者の獲得という事実が「対象はそれだけの価値がある」という確認と「自分はそれを得られなかった」という確認を一つの出来事の中に含むからである。そしてこの二つの確認は、対象が自分の欲望の対象であることによってのみ同時に成立する。欲望していない対象をめぐっては屈辱も興奮も発生しない。自分が強く欲するからこそ、他者の獲得は自己の劣位の証明であると同時に対象の価値の証明として機能する。欲望の強度が屈辱と興奮の両方の強度を規定する。

例えば、関係への脅威の知覚がドーパミン系を活性化することは神経画像研究によって確認されており、嫉妬条件下で報酬・動機づけに関わる線条体領域の活性化が観察されている。脅威への反応が同時に欲望の強化をもたらすという逆説は、神経化学的な水準で実在する。さらに進化的な水準では、競合の知覚が生殖競争の回路を起動するという精子競争理論が示すように、他者の獲得という事実への興奮反応は生物学的に準備された反応である可能性がある。

焦点は「自己と他者の非対称の知覚」にある。同一化の有無に関わらず発生し、EなしにFだけが起きることもある。選択性の象徴的確定が成立している場合、屈辱の強度が質的に変化する。交換不可能性バイアスが強いほど、非対称の知覚が鋭化し、興奮と屈辱の両極が同時に増大する。

EとFの関係:表面的に似ているが機能が異なる。Eは他者との心理的合流による充足であり、Fは非対称の確認から生まれる複合的な覚醒である。両者は混在することが多いが、区別することで、同一の場面でEが優勢なときとFが優勢なときの感情的質の差異を記述できる。

G. 自己像の生産

他者による承認や自分の欲するものの獲得が「選択された自分」「獲得できた自分」という自己像を生産し、他者による拒絶や、他者の自分が欲するものの獲得という事実が「選択されなかった自分」「獲得できなかった自分」という自己像を生産する。対象への欲望が自己への欲望・嫌悪に転化し、その自己像が次の欲望の構造を規定する。交換不可能性バイアスが強いほど、この自己像は固定化され、次の欲望の構造をより強く規定する。選択性の象徴的確定が成立している場合、「選ばれなかった自分」という自己像が加わり、自己への欲望・嫌悪の強度が増す。

3:獲得の実際的条件論

H. 先天的条件

容姿・身体・知性の基礎的水準など、本人の意志に関わらず与えられているもの。相手が実際に応じるかどうかに直接影響し、現実の獲得可能性を規定する。

I. 後天的条件

経済力・社会的地位・コミュニケーション能力など、経験と努力によって習得されたもの。同様に獲得の実際的可能性を規定する。先天的条件は、実際には後天的条件を通して間接的に現れる。後天的条件は時間に応じて変化するものであり、変化させることができるものである。

J. コスト・難易度の知覚

対象への接近に要する資源(時間・労力・感情・経済・社会的リスク)の主観的評価。次元1Bの価値観的言語によって「割に合わない」と判定されうるが、次元1Aの先天的衝動はその判定の外側で持続する。

K. 交換不可能性バイアス

コスト・希少性・サンクコスト・社会的承認の期待・自己像との結びつきなど、市場的計算の総体が「この人でなければならない」という単純化された感覚に変換される認知バイアス。対象は属性の集合として記述可能であるが、このバイアスによってその記述が遮断される。

交換不可能性バイアスの強度はIのコスト・難易度の知覚と正比例する。投資が大きいほど、希少性の知覚が高いほど、バイアスは強化される。これが「なぜ難しい対象ほど強く欲されるか」の構造的説明となる。またGで生産された自己像がバイアスをさらに強化する。「獲得できなかった自分」「選ばれなかった自分」という自己像が対象の代替不可能性の感覚を増幅する。

自己断絶により欲望の発生根拠が不透明であるため、当事者は交換不可能性バイアスをその根拠として事後的に参照することがままある。そのとき「なぜこの人でなければならないか」という問いに、バイアスが発生根拠の代替として機能する。

 

L. 関係の非対称性

二者関係において、他者は自己像を共同生成する対等な鏡ではなく、他者への欲望を前提とした上で、自分が「選ばれた者/選ばれなかった者」「獲得できた者/獲得できなかった者」として自分を把握するための裁定者としてその欲望の強度で機能する。

この裁定は相互に発生しうるが、相互性として統合されることはない。なぜなら各主体は、それぞれ自分の欲望の中心からしか関係を経験できないからである。したがって、関係は二者の対称的交換ではなく、二つの非対称な経験が偶然に重なったものにすぎない。

自由意志が存在しないと仮定しても責任は存在するということ

1. 決定論的世界観を受け入れ、自由意志は存在しないと仮定する。そこには全てを予測することは不可能であるという人知の限界がまず現れる。その認知論的限界によって行為主体性及び行為主体感は決定論的世界観と矛盾しないものとして成立する。

 

2. 他者や共同体に全知を想定しない限り、それらは間主観的に行為主体である。

 2-1. 全知を想定することができない以上、真実という方向性は存在しない。ゆえに間主観的妥当が真実を代行する。

 2-2. 主観的妥当を形成する全ての働きは「説得」として抽象化される。間主観的妥当はそうした主観的妥当を間主観的に反映する。

 

3. 現状の責任概念の成立要件となっている善悪概念はすべての法主体にそうした行為主体性を仮定して初めて成立する。

 3-1.行為主体性は認知論的限界によって成立するため、何らかの法主体に全知の存在を仮定する水準には、行為主体が存在できず、よって善悪概念も責任概念も存在できない。

 3-2.ゆえにいかなる法主体も全知の存在を前提として倫理を構築することはできない。

 3-3.行為主体は認知論的限界によって成立するため、自らの行為の原因の説明に限界を持つ。

 3-4.ゆえに責任帰属は行為主体が行為の理由を完全に説明できることを前提としない。

 3-5.責任概念は行為主体感に依存し、選択し得るという間主観的行為主体感に依拠する。


4.法の執行は間主観的に決定される倫理基準(間主観的妥当)によって、あらゆる法主体の選択的行為と同水準で行われる。

 4-1.間主観的妥当の位置はその集団に依存する。

 4-2.個別の執行は機能的に間主観的妥当を大なり小なり逸脱すること(機能的非倫理性)を免れ得ない。

 4-3.倫理的正当性は構造的に真実からの差異としては評価され得ない。その機能は間主観的妥当からの差異としてのみ評価される。

 

人は何のために働いているのか?

 一

 大麻解禁だの、規制だのという会話が日常的なレベルですら見られるようになってきた。だがそれらの議論はなぜ規制すべきなのか、あるいはなぜ解禁するべきなのか両方の立場から一方的にぶつけられる意見のやり取りに終始するものが殆どだ。実際は、それを規制するべき理由と、解禁すべき理由は共に存在していて、まったく違う水準から考えることができる。

 二

 酒や煙草や大麻や紅茶やコーヒーを飲みながらぼーっとする時間以外に、個々の人間にとって楽しみなどない。のんびりチルしながら深く考えずに暮らすというのは、個体としての人間にとっての理想であり終着点である。それと同時に、そうして暮らす人々ばかりになることは、国家にとってこれ以上なく不利益なことでもある。人々が無意味に働いて生まれた剰余価値を吸い取り、軍事や社会福祉に回さなければ、国家というものは破綻してしまうからだ。

 物質はいずれすべて鉄になるという喩え話をしていた学者がいたが、今の国家における剰余価値は最終的に軍事力に行き着く。スポーツのような仮想的な軍事を除けば煙草も酒もそういった嗜好品・娯楽は皆、国にとっては余計で邪魔なものだ。だから多額の税金をかけて初めてバランスが取れる。

 大麻のような薬物は治安を乱すとか、カオスを招くから禁止したほうが良いという論調があるが、それは実際は真逆であり、国民がチルしたりヒッピーのような生活をして個々の人間として「リタイア」したり「ゴール」してしまうのは困るからなのである。

 三

 なぜこれだけ豊かになり、技術が発展してもまだ人間は働かなくてはいけないのだろうか?もしAIが人間の仕事を「奪う」なら、「奪われた」人たちは、そのAIの生産性によって働かずにも以前と同じように暮らせるはずではないのか?

 先進国の人間は、どれだけ自らの「普通の生活」が、軍事的紐帯によって初めて担保されていることを意識しているだろう。資源や食料を世界中の人間が先進国の人間と同じだけ優雅に使うことができるようになるまで、世界中には豊かさの不均衡が残り続ける。この不均衡が存在する限り、軍事力は先進国の人間がこの特権を享受するためのライフラインとなる。

 (実際的な労働力としての移民を除いて)移民を入れたい国などあるはずがない。倫理的観点から他国の貧しい移民を受け入れるなどということが成立するならば、国家というものは初めから存在していない。右翼の多くが変化を嫌っているだけのバカの集まりであるのに対し、左翼の多くは今すぐに何かを変えることができると信じる性急なバカの集まりである。

 国家は周囲の国家に対する優越性を維持し続ける必要に迫られ続けている。AIによって世界中の生産性が向上したならば、これまで以上に生産性を上げなければ、この相対的優位を保つことができない。だからリソースが世界的に飽和しない限り、国家の成員はいつまで経っても自らの欲望のままに「ゴール」することは許されていない。

 四

 世の中でさんざん見られるような「平和的活動」はなぜか、「世界中が手を取り合えば今すぐにでも世界平和は実現できる」というナイーブなものばかりだが、実際の平和的活動とは、食料の生産性や保存性を上げたり、飲み水を世界中のどこでも生産できるようにする技術を開発したり、原油などといったいつか尽きたり、特定の国しか生産できないエネルギーへの依存を失くしたりする活動のことであり、ヒッピーのように個々の快楽を追い求め勝手に自分たちでゴールしてしまうことにはない。

 ヒッピーの得ることができるかもしれない平和は、個々人の得ることができる最上のものとして真実でありうるのと同時に、国家の成員としてはより貧しい他国からの搾取・抑圧をもとに得ているものに過ぎないからだ。それを個々人として追い求めることは許されるべきだが、彼らがそれをまっとうな社会活動のように捉えたり、敷衍しようとするならばそれは愚かさ以上の何でもない。

 ブッダは釈迦族の王子としての地位を捨てて出家した。政治という共同体のための活動に、個人としての成就を目指したいシッダールタの性格は向かなかった。結局彼は、開けた丘の木の下で座り、人々が彼に施しをするという不自然な構造に居座ることを個人としてのゴールとした。人々が彼を尊い存在だとみなし、彼を支えるようになること自体が、仏陀の一種のスキルであり、資質であり、能力なのだから、彼のゴールはエンターテイナーや大道芸人のように芸で身を立てるのに近く、否定されたり非難される筋合いもないのだが、悟りなどという名前で呼んで、誰もが仏教徒になれば世界は平和になるのになどと考え始めるといよいよ妄想である。

 残念なことながら、平和を訴え右翼的思想を下劣なものと見なし、あるいはヒッピーや釈迦のように政治から身を離し、あるいは活動家たちのようにスプレーで美術品を塗りたくっている者たちもまた、国力の庇護なしにはその生活を成り立たせられない。

 自らが思い描く生活圏の円の中から政治そのものや国家主義を追い出したとしても、その円内を出入りするほかの人々は少なからず共同体に奉仕し、国民のために税金を納め、国力の恩恵としての特権を支えている事実が残る。良くも悪くも、我々は現状として豊かな国の下にある以上、共同体として貧しい国家を抑圧する悪の加担者であることを構造的に免れないのであり、同時に個々人としてはその事実に責任を負いようがない無力な弱者であることを強いられてもいるのである。

 五

 個々の人間にとっての楽しみは酒や煙草や大麻や紅茶やコーヒーを飲みながらぼーっとする時間に行き着いてしまい、それ以上のものはないのだが、共同体の成員としての人間にとっては、もう一つの喜び、勝利という相対的な喜びがある。

 どんな小さな共同体にも、勝利という喜びがある。大学のサークルや会社の中にあるようなヒエラルキーから、各国間の戦争という国家的スケールにおける共同体においても、そこに優劣がある限りにおいて勝利があり、その喜びがある。

 勝利の喜びは、その先のどのような結果とも実際には関係ない。同列に並べられた他の物より優れているということを証明するということが全てであり、そこですべてが完結している。副産物として得られる戦利品は勝利の喜びを追い求める者にとっては、けして目的にはならない。戦いの果てに平和という喜びがあるから、それに向かって突き進んでいるという図式は誤っている。

 周囲で最も稼ぐものになりたいと願うことは、その金を使って得られる様々な恩恵とは本来直接の関係がないことであり、最も美しい女性と付き合いたいと願うことは、性行為の快楽そのものとは実際は関係がないことである。ただ集団における競争的優位性、勝利の喜びにおけるトロフィーとして給料やパートナーが勝利のシンボルとして利用されているに過ぎない。

 競争のむなしさに行き着いてそれをやめるということは、平和に行き着いて目的を達成したから引き上げるというような美しいものではない。関係そのものにしかもともと存在していない相対的価値のむなしさが、ふと一人になったときに訪れるのである。

 酒や大麻といった娯楽と、勝利や優越の喜びという対照的な喜びは、しかしその始原を共有している。それは個々人の不安である。不安の描く円が最も小さくなり、自らの周りをくるくると回っているとき、酒や大麻といった思考の麻痺という方向性の娯楽が現れてくる。その円が大きくなり、他者や共同体を巻き込んで起こるとき、そこに勝負や優越という方向性の娯楽が現れてくる。

 もし人間が感情という行動原理を持っていなければ、例え利益の相違や齟齬が生じても争いは起こらない。国家という線引きそのものさえ、感情なしには生まれ得なかった。

 不安は感情の始原であり、それをどの方向へ連れて行っても完全になくなることのないものである。だから何らかの過激な方法や、究極的な方策を取ろうとしたところで、それは正しい処遇とはならない。それは競争においては世界統一のような野望が初めから破綻していることを意味し、個人レベルにおいては、大麻や酒に過度な期待を抱き、それさえあれば不安なく生きていけるという妄想にとらわれてしまうことを指している。

 六

 思春期の若者や哲学者はしばしば生の無意味さについて働きかける。だが実際のそれは、この不安という病気に対する特効薬の不在を嘆いているのに過ぎない。

 不安に処する方法は深く考えない、あるいは正しく考えることの二つの方法に分けられる。深く考えない愚者は、既存の構造における現状的な満足を得やすいため上手くいっている状況においてはいらぬ不安を問題にせず平和に過ごして生きやすい。

 そうでない人々、どうしても深く考えざるを得ない者たちには、理性の限界と向き合う必要が出てくる。将来の予測といった安定的志向の支えとなる理性は、しかし予測の限界という不安要素を両手に抱えて戻ってくるからである。

 しかし可能な限り理性を実用的に使わなければならない。そして持ち帰ってきた限界の二文字をどこかに処分しておかなければならない。そのバランスをいかに取るということが個々人における実際的な問題に他ならない。

 そこに大麻や酒という鎮痛剤が現れる。それはただの娯楽、不要物とみなされることがあってはならず、同時にこれ以上思考せずに済むための過度な救済として期待されることがあってもならない。深く考えずに日々をぼーっと暮らすという理想は全世界の人口のほんの数パーセントが結果として享受することができるものであり、けして約束の地などではないからである。その意味合いでいえば、人生において死以外に本当のゴールというものはどこにも存在しない。

 世の中はこのように回転しています。これはちょうどマンゴーの樹のようなものです。樹が成長し、花が咲き、実がなって、熟します。それから実は腐り、地面に種が落ちて土に戻ります。また新しいマンゴーの樹が育ちます。このサイクルが、また始まるのです。これが世の中というものです。そこに意味はなく、ただ決まりきった同じことをぐるぐる回転しているにすぎません。私たちの生き方も同じです。今日もいつもの決まりきったことをくり返すだけです。

( 『アチャン・チャー法話集』 第一巻p.122 )

 七

 人は何のために働いているのか?結局のところすべては、全人類が幸福になるために労働の総体というものはあるのである。全人類にリソースが行きわたるようになるまで、人間から競争をなくすことはできず、不安を取り払うことはできないからである。

 だから我々は意識的には自らの不安を払拭するためだけに酒を買ったり、見栄を張るためだけに、自分で生活していくだけに本来必要な分以上の過剰な労働に身をやつしているのではあるが、結果的には自分の所属する国家を強くして自らが既に得ている特権を守るために汗を流しながら、同時に生産性の向上の果てに人類全体をこの苦しみから解放するためにも働いているのである。

俳句の寂について

 一

 俳句は松尾芭蕉の文学だと誰かが言った。俳句は松尾芭蕉に始まり松尾芭蕉に終わったのだと。それは比喩に過ぎないが、不思議に確かにそうだと思わせられる気持ちもある。だがそれは松尾芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」のように鮮やかな映像を描き出す名句を作ったからでは決してない。

 

 二

 プレバトのような番組や俳句甲子園のような現代俳句の試みがある。作者は必死にうんうん唸って考えて機知に満ちた傑作を一句えいやと投じる。それを審査員が評価する大喜利のフォーマットである。

 その価値観においては短い言葉でどれだけ鮮やかな光景を描き出せるかがブレない軸であり、そこに独創性が付加価値として加わる。俳句甲子園の過去の優秀作品を見れば、それらがどれほどビジュアルで独創的かを素人目でも容易に見て取ることができる。

 俳句は5・7・5の文学と言ったり、季語がある短詩だと説明したりするが、それでは無季俳句や自由律俳句がいかにして俳句であるかを説明できないし、川柳と俳句の違いも曖昧なままだ。実は、俳句の魔力は切れという技術にこそある。

 「古池や蛙飛び込む水の音」という句は切れ字を説明するのに非常に都合が良い。この句をよく見ると、「古池」という単語と「蛙飛び込む水の音」という二つの単語が並置されていることがわかる。俳句の言葉ではこの並置を「取り合わせ」というが、この二つの異質さにこの技術の肝がある。

 古池という単語は、この句において舞台設定を担当している。古池という場所である。そこに「水の音」という音響が加わる。結果としてこの句は、場所が持つ空間的な広がり、空間性と、音響が持つ時間的な広がり、時間性を持つことになり、空間と時間を併せ持った映像として読まれることになる。

 これこそが俳句がこの短さにして、これだけ広大な映像を得ることができる秘密である。そこに空間的な広がりと時間的な広がりがあるからこそ、短い詩に大きなインパクトがある。

 そして先に述べたプレバトや俳句甲子園のような番組であったり、雑誌に投稿される俳句は結果としてこの技術をどれだけ敷衍できるかという技術と才気の知恵比べになっている。

 

 三

 だが、それが詩歌としての俳句の本質であるわけではない。詩歌の本質は言葉の本質にあり、言葉の本質は映像を想起させることそのものにはない。

 言葉は魔法である。それはまず謎の音として個を訪れる。謎の音は謎の呼びかけであると了解されるようになり、その結果として意味が期待される。意味は期待された通りに訪れる。「ママ」という音は母親と自分を結びつける絆として理解されるようになり車と自分は「ブーブー」という指差しによって結合し、不在と自分は「いないいない」という記号によって一緒になる。

 文法の発展は一本の糸から万能な網を作り出すように、その可塑性を増やすが、言葉の本質は変わらないまま、世界と自分との初源的な繋がりとして存在し続ける。

 実際生活で、しかし言葉はその性質を濫用される。言葉は例えば命令法を通して世界ではなく他人に向けられる。愛は世界に対してではなく誰かに向けて囁かれる。それはもともと世界に呼び掛けていたはずの「ママ」がいつの間にか部分としての「ママ」に対する発語としてすり替わってしまっていたのと同じように。

 詩の本質は世界と自分の直接の繋がりとしての言語の探求の中にある。生活の中で実用的に使われる言葉のような誰かのもとに逸れていく言葉ではない、世界そのものを対象とした言葉の探求にある。

 だから俳句のように意味を通らずに映像を紡ぐ形式は詩の本質に沿っている。それを鮮やかさや独創性の追求として審査員や観衆の目といった、別の方向に逸らしてしまわない限り。

 

 四

 松尾芭蕉を知っている多くの人は、しかし松尾芭蕉の1000を超える句を知らない。正岡子規を知っている多くの人は、しかし、その数万の句を知らない。

 そして彼らは、先に述べたような空間性と時間性の可能性を敷衍した見るからに美しい映像の詩ばかりを作っているわけではない。正岡子規の句を見てみよう。

うとうとと春の寝心夢もなし ―― 政岡子規

 夢もないような眠たい春の寝心地について書いた句である。この句には先に挙げたような華々しい映像も鮮やかさも独創性もない。それでは、この句が川柳ではなく俳句である理由はどこにあるのだろう?

 この句がいかに、誰にも向かっていない独り言であるかを見てほしい。誰の顔にも逸れていかない言葉、世界に向かう言葉であるかを見てほしい。そこに俳句の本領があり、詩の本領がある。

 

 五

 僕は詩を書くのが趣味だったが、十年ほど書き続けたのちにはたと書くのをやめてしまった。人とつながるための言葉を書いているはずなのに、書けば書くほど孤独が強調される事実に直面したのだ。

 詩を公開すれば、詩が読まれることよりも、驚くほど詩が読まれていないこと、きわめて表層の次元でしか僕らの言葉が共有できないことに気が付いたのだった。

 だがそれもその筈である。言葉はその本質に向かえば向かうほど、自分と世界との直接の関係を響かせる。結果として詩の探求は、他人が存在する前提をどんどんと脱離していく。

 後世の評論家たちが芭蕉の俳句を見てまさに侘び・寂びだと喜んだのも無理はない。俳句の本質は鮮やかな映像や独創性にはない。映像を描いたとき、そこに誰もいない寂しさにある。自分について描いたとき、そこに自分しかいない寂しさにある。誰かと自分のことを書いたとき、そこに誰かと自分しかいない寂しさにある。人々について書いたとき、そこに人々しかない寂しさにあるのだ。

この道や行く人なしに秋の暮れ ――松尾芭蕉

 

 六

 俳句は松尾芭蕉の文学だと誰かが言った。俳句は松尾芭蕉に始まり松尾芭蕉に終わったのだと。それは比喩に過ぎないが、不思議に確かにそうだと思わせられる気持ちもある。だがそれは松尾芭蕉が「古池や蛙飛び込む水の音」のように鮮やかな映像を描き出す名句を作ったからでは決してない。