一
大麻解禁だの、規制だのという会話が日常的なレベルですら見られるようになってきた。だがそれらの議論はなぜ規制すべきなのか、あるいはなぜ解禁するべきなのか両方の立場から一方的にぶつけられる意見のやり取りに終始するものが殆どだ。実際は、それを規制するべき理由と、解禁すべき理由は共に存在していて、まったく違う水準から考えることができる。
二
酒や煙草や大麻や紅茶やコーヒーを飲みながらぼーっとする時間以外に、個々の人間にとって楽しみなどない。のんびりチルしながら深く考えずに暮らすというのは、個体としての人間にとっての理想であり終着点である。それと同時に、そうして暮らす人々ばかりになることは、国家にとってこれ以上なく不利益なことでもある。人々が無意味に働いて生まれた剰余価値を吸い取り、軍事や社会福祉に回さなければ、国家というものは破綻してしまうからだ。
物質はいずれすべて鉄になるという喩え話をしていた学者がいたが、今の国家における剰余価値は最終的に軍事力に行き着く。スポーツのような仮想的な軍事を除けば煙草も酒もそういった嗜好品・娯楽は皆、国にとっては余計で邪魔なものだ。だから多額の税金をかけて初めてバランスが取れる。
大麻のような薬物は治安を乱すとか、カオスを招くから禁止したほうが良いという論調があるが、それは実際は真逆であり、国民がチルしたりヒッピーのような生活をして個々の人間として「リタイア」したり「ゴール」してしまうのは困るからなのである。
三
なぜこれだけ豊かになり、技術が発展してもまだ人間は働かなくてはいけないのだろうか?もしAIが人間の仕事を「奪う」なら、「奪われた」人たちは、そのAIの生産性によって働かずにも以前と同じように暮らせるはずではないのか?
先進国の人間は、どれだけ自らの「普通の生活」が、軍事的紐帯によって初めて担保されていることを意識しているだろう。資源や食料を世界中の人間が先進国の人間と同じだけ優雅に使うことができるようになるまで、世界中には豊かさの不均衡が残り続ける。この不均衡が存在する限り、軍事力は先進国の人間がこの特権を享受するためのライフラインとなる。
(実際的な労働力としての移民を除いて)移民を入れたい国などあるはずがない。倫理的観点から他国の貧しい移民を受け入れるなどということが成立するならば、国家というものは初めから存在していない。右翼の多くが変化を嫌っているだけのバカの集まりであるのに対し、左翼の多くは今すぐに何かを変えることができると信じる性急なバカの集まりである。
国家は周囲の国家に対する優越性を維持し続ける必要に迫られ続けている。AIによって世界中の生産性が向上したならば、これまで以上に生産性を上げなければ、この相対的優位を保つことができない。だからリソースが世界的に飽和しない限り、国家の成員はいつまで経っても自らの欲望のままに「ゴール」することは許されていない。
四
世の中でさんざん見られるような「平和的活動」はなぜか、「世界中が手を取り合えば今すぐにでも世界平和は実現できる」というナイーブなものばかりだが、実際の平和的活動とは、食料の生産性や保存性を上げたり、飲み水を世界中のどこでも生産できるようにする技術を開発したり、原油などといったいつか尽きたり、特定の国しか生産できないエネルギーへの依存を失くしたりする活動のことであり、ヒッピーのように個々の快楽を追い求め勝手に自分たちでゴールしてしまうことにはない。
ヒッピーの得ることができるかもしれない平和は、個々人の得ることができる最上のものとして真実でありうるのと同時に、国家の成員としてはより貧しい他国からの搾取・抑圧をもとに得ているものに過ぎないからだ。それを個々人として追い求めることは許されるべきだが、彼らがそれをまっとうな社会活動のように捉えたり、敷衍しようとするならばそれは愚かさ以上の何でもない。
ブッダは釈迦族の王子としての地位を捨てて出家した。政治という共同体のための活動に、個人としての成就を目指したいシッダールタの性格は向かなかった。結局彼は、開けた丘の木の下で座り、人々が彼に施しをするという不自然な構造に居座ることを個人としてのゴールとした。人々が彼を尊い存在だとみなし、彼を支えるようになること自体が、仏陀の一種のスキルであり、資質であり、能力なのだから、彼のゴールはエンターテイナーや大道芸人のように芸で身を立てるのに近く、否定されたり非難される筋合いもないのだが、悟りなどという名前で呼んで、誰もが仏教徒になれば世界は平和になるのになどと考え始めるといよいよ妄想である。
残念なことながら、平和を訴え右翼的思想を下劣なものと見なし、あるいはヒッピーや釈迦のように政治から身を離し、あるいは活動家たちのようにスプレーで美術品を塗りたくっている者たちもまた、国力の庇護なしにはその生活を成り立たせられない。
自らが思い描く生活圏の円の中から政治そのものや国家主義を追い出したとしても、その円内を出入りするほかの人々は少なからず共同体に奉仕し、国民のために税金を納め、国力の恩恵としての特権を支えている事実が残る。良くも悪くも、我々は現状として豊かな国の下にある以上、共同体として貧しい国家を抑圧する悪の加担者であることを構造的に免れないのであり、同時に個々人としてはその事実に責任を負いようがない無力な弱者であることを強いられてもいるのである。
五
個々の人間にとっての楽しみは酒や煙草や大麻や紅茶やコーヒーを飲みながらぼーっとする時間に行き着いてしまい、それ以上のものはないのだが、共同体の成員としての人間にとっては、もう一つの喜び、勝利という相対的な喜びがある。
どんな小さな共同体にも、勝利という喜びがある。大学のサークルや会社の中にあるようなヒエラルキーから、各国間の戦争という国家的スケールにおける共同体においても、そこに優劣がある限りにおいて勝利があり、その喜びがある。
勝利の喜びは、その先のどのような結果とも実際には関係ない。同列に並べられた他の物より優れているということを証明するということが全てであり、そこですべてが完結している。副産物として得られる戦利品は勝利の喜びを追い求める者にとっては、けして目的にはならない。戦いの果てに平和という喜びがあるから、それに向かって突き進んでいるという図式は誤っている。
周囲で最も稼ぐものになりたいと願うことは、その金を使って得られる様々な恩恵とは本来直接の関係がないことであり、最も美しい女性と付き合いたいと願うことは、性行為の快楽そのものとは実際は関係がないことである。ただ集団における競争的優位性、勝利の喜びにおけるトロフィーとして給料やパートナーが勝利のシンボルとして利用されているに過ぎない。
競争のむなしさに行き着いてそれをやめるということは、平和に行き着いて目的を達成したから引き上げるというような美しいものではない。関係そのものにしかもともと存在していない相対的価値のむなしさが、ふと一人になったときに訪れるのである。
酒や大麻といった娯楽と、勝利や優越の喜びという対照的な喜びは、しかしその始原を共有している。それは個々人の不安である。不安の描く円が最も小さくなり、自らの周りをくるくると回っているとき、酒や大麻といった思考の麻痺という方向性の娯楽が現れてくる。その円が大きくなり、他者や共同体を巻き込んで起こるとき、そこに勝負や優越という方向性の娯楽が現れてくる。
もし人間が感情という行動原理を持っていなければ、例え利益の相違や齟齬が生じても争いは起こらない。国家という線引きそのものさえ、感情なしには生まれ得なかった。
不安は感情の始原であり、それをどの方向へ連れて行っても完全になくなることのないものである。だから何らかの過激な方法や、究極的な方策を取ろうとしたところで、それは正しい処遇とはならない。それは競争においては世界統一のような野望が初めから破綻していることを意味し、個人レベルにおいては、大麻や酒に過度な期待を抱き、それさえあれば不安なく生きていけるという妄想にとらわれてしまうことを指している。
六
思春期の若者や哲学者はしばしば生の無意味さについて働きかける。だが実際のそれは、この不安という病気に対する特効薬の不在を嘆いているのに過ぎない。
不安に処する方法は深く考えない、あるいは正しく考えることの二つの方法に分けられる。深く考えない愚者は、既存の構造における現状的な満足を得やすいため上手くいっている状況においてはいらぬ不安を問題にせず平和に過ごして生きやすい。
そうでない人々、どうしても深く考えざるを得ない者たちには、理性の限界と向き合う必要が出てくる。将来の予測といった安定的志向の支えとなる理性は、しかし予測の限界という不安要素を両手に抱えて戻ってくるからである。
しかし可能な限り理性を実用的に使わなければならない。そして持ち帰ってきた限界の二文字をどこかに処分しておかなければならない。そのバランスをいかに取るということが個々人における実際的な問題に他ならない。
そこに大麻や酒という鎮痛剤が現れる。それはただの娯楽、不要物とみなされることがあってはならず、同時にこれ以上思考せずに済むための過度な救済として期待されることがあってもならない。深く考えずに日々をぼーっと暮らすという理想は全世界の人口のほんの数パーセントが結果として享受することができるものであり、けして約束の地などではないからである。その意味合いでいえば、人生において死以外に本当のゴールというものはどこにも存在しない。
世の中はこのように回転しています。これはちょうどマンゴーの樹のようなものです。樹が成長し、花が咲き、実がなって、熟します。それから実は腐り、地面に種が落ちて土に戻ります。また新しいマンゴーの樹が育ちます。このサイクルが、また始まるのです。これが世の中というものです。そこに意味はなく、ただ決まりきった同じことをぐるぐる回転しているにすぎません。私たちの生き方も同じです。今日もいつもの決まりきったことをくり返すだけです。
( 『アチャン・チャー法話集』 第一巻p.122 )
七
人は何のために働いているのか?結局のところすべては、全人類が幸福になるために労働の総体というものはあるのである。全人類にリソースが行きわたるようになるまで、人間から競争をなくすことはできず、不安を取り払うことはできないからである。
だから我々は意識的には自らの不安を払拭するためだけに酒を買ったり、見栄を張るためだけに、自分で生活していくだけに本来必要な分以上の過剰な労働に身をやつしているのではあるが、結果的には自分の所属する国家を強くして自らが既に得ている特権を守るために汗を流しながら、同時に生産性の向上の果てに人類全体をこの苦しみから解放するためにも働いているのである。