tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

タブーについて

日本のドラマやアニメにおける教師と生徒の愛は、日本の文脈ではロマンティックに捉えられる事が多いが、海外ではしばしば批判にさらされる。この差異は明らかにタブーの差異であり、そして近親相姦のようなより普遍的なタブーとの質的な差異はない。言い換えるならば、それらタブーは本能的に忌避されるものではなく、何らかの理由で拵えられたものだ。何らかの理由とは、より普遍的な無秩序への恐れからであり、言い換えればタブーとは秩序と無秩序に引かれた境界線にある事象のことだ。明らかに無秩序を指すわけではなければ、明らかに秩序を指すわけではない、あるいはある意味で秩序的であるものが、ある意味では無秩序である認知上の矛盾がそれらを境界線に置く。この事実は、例えば性的行為に対する背徳感、破壊的感情を説明する。なぜならそれは秩序に対しては紛れもなく破壊的行為であり、同時にそれを求める理由は、性的行為の向こう側に想定されるより大きな秩序(の可能性)を示唆している。当然この問題は単に言及されるだけに留まることはできないが。近親相姦は「父親のもの」という基本的な秩序を壊すことへの恐怖感からの忌避だと簡単にいえるが、これをより遠縁の親族や教師に適用できるかはより恣意的なものになる。どちらにしろ、この恣意性自体についての推察はこの抽象レベルでは意味を持たない。性的欲求とその満足は、秩序と無秩序との関係において、「自分のもの」に関わり、同時に「他人のもの」に関わる。この紐帯、個々人とのではなく世界との紐帯の強さは、始原的な「父親のもの」の強さに比例する。父権の強いアラビア世界での不倫ほど、日本社会での不倫は言語道断とされえない。当然それは個人的に許すかどうかの水準にはなく、共同体の水準での話だ。個人的な水準では、紐帯の弱さによる不安さから繋がる過剰性が当然のごとく生じるからだ。この紐帯の弱さは、しかし世間が指摘する父権の弱化に対しては極めて原始的ゆえに本質的で、父権の弱さは主に青年期に影響するが、「父親のもの」を巡る世界との紐帯は、乳幼児期まで遡る。父権の弱さは「父親のもの」を巡る困惑のプロセスの中で青年期に影響する意味で無関係ではないが、父権が弱くなれば即近親相姦タブーが除去されるようなことはない。また、男女間の非相対性について言及されないがゆえに生じる混乱は多いが、「母親のもの」は存在しない。

愛を囁きあうこと

 ふと息を吐いた。最近ずっと何かをしていて、眠るときにもすぐ落ちてしまうから、ぼーっとする時間がなかった。ずっと暇なのにぼーっとする時間がないというのはいささか奇妙なことだ。マッサージチェアに深く腰掛け、頭の中で今取り組んでいるパズルの解法を考えていると、テレビで幸せそうな夫婦の姿が流れていた。なぜ性関係は、より優れた相手を希求し続けることを要求し、この世にはパートナーより高い価値がある相手で必ず満ちているのに、幸せな夫婦が存在できるのだろう?

 創作の世界でより強調される「特別な存在」たち。ふと創作と現実を重ね合わせてみると、どれだけ現実に存在する人たちが「差のないような」人たちなのだろうかという気がしてくる。そうだ、そうなのだと、稲妻が走った。全ての人には、本質的な意味で、質的な差は存在しないのだ。いままでは現実の条件や長い間時間を共にすることで生まれる愛着、あるいは脳内物質が云々などという妥協的な発想だけで、幸せな夫婦について、なんとか納得するしかなかった。だが人間同士の差異というものは、その差異を前提とした世界にではなく、質的に本来差のない世界の中に持ち込まれ拵えられた二次的な要素にすぎないのだ。

 もう一度正確に言い直そう、性関係は明白な力関係に規定されており、その競争性は明らかであり、原則として性関係における個々は常により良い相手を探すものだ。現実の条件によって妥協したり諦めたりする水準を認めたにしても、個々の人間に優劣の価値をつけ決定することができ、パートナーが最も価値の高い相手である確率は限りなく低いという事実は変わらない。しかしながら、この前提があるのにもかかわらず、現実生活における不倫や浮気は、潜在的には多少あったとしても、想定されるほぼ100%の破綻という割合には遠く及ばない。さらにこの問いは、どうしてより良い相手を選ぶ可能性を制限してまで婚姻が、あるいは一途の重要さが一定の共通認識として担保されているのだろうか、という問いにも繋げることができる。そして、その答えは、すべての人間には質的な差異がないから、なのだ。すべての人間は質的に等価という前提が第一にあり、故に性関係や、社会規則、倫理といった二次的な関係がせめぎ合うことができる。性関係の法則と社会規則というのは対立関係にあるものではなく、全ては等価である本質から、それぞれの基準において諸構成要素を恣意的に細分化、差別化し、見事な価値体系の城を築き上げたものであり、並立関係にあっても、けして対立関係にはない。そのどちらかを本来的なものだとみなす所に、対立の構図が生まれるのみである。

 多様性などという言葉があるが、本質的には全ての人は等価なのだ。副次的に作り上げていくものだからこそ、恣意的に決定される価値体系は、逆説的ながら本来想像される以上にユニークなものになりうる。なぜ多様になるのか?と問うならば、多様性が人間に本質的だから、ではなく、本質的に同一だからこそ、いかようにも変化できるのだ。もし多様性がその本質ならば、それは限られたバリエーションのなかに類型化していく他にない。勿論実際には類型化していくのだが、それは彷徨うことに対する不安という全く別の文脈から起こる。(この実際問題はここで立ち入るにはあまりに枝葉の問題である。)

 平たく言えば、Aさんを選ぼうが、Bさんを選ぼうが、本質的には何も変わりはないのだ。恋において人と人の違いが、どこが好きでどこが嫌いかという条件の問題が、本来的な要素であるように見えるが、本来は、恋とは全ての対象に等しい濃度を取るはずなのだ。しかし、そこに「禁制」が持ち込まれる。そのたぐいの恋は、自らをある制約、条件、理由の中に縛り付けることによって生じる、言うなれば強迫的なものなのである。

 求めることの矛盾が――つまり個別の、特定の誰かを強いて選んで一つになりたいと願うことの矛盾が――生み出したロマンス――運命の人、アダムとイヴ、取り替えの効かない誰かという誤認――もし個別の誰かが絶対的な誰かであるならば、その関係の成立のためには、自分自身が絶対的な誰かであることが当然――無意識下に肯定される形で無視されるとはいえ――要求され、そして対手が絶対的な対象であることは認識者の特権として恣意的に決定できたとしても、同時に認識者の限界として、自分自身を対手における絶対的な対象として決定することは不可能である。自分が対手をどのように理想化したとしても、自分自身は常に、対手からすれば交換可能な誰かであることを免れ得ないのである――愛を囁きあうこと!

 原理的に破綻したそのロマンスは、しかし先に述べたように、恋の本質などではない。恋の本質はお互いがお互いにとって完全に交換可能なことにあり、彼が彼でなければならないことの――彼女が彼女でなければならないことの――根拠はあくまで条件として生じるものに過ぎない。ここでいう条件とは、恣意的な、というよりも、"たまたま生まれる"もののことである。

 しかし、人は人をたまたま恋するわけではない。人は人を必然的に恋する。しかし特定の誰かをではなく、他者である万人を恋するように定められている。だが条件の中では特別早い段階に訪れる禁制が、万人を恋することを禁じるのである。(ここでは詳述しないものの、禁制という概念は説明するのにそれほど難しい概念ではない。)禁制はそれ自体が条件であり、ゆえにたまたま齎されたものである。それ以後の条件もまた偶然齎されたものに限られ、それはたまたま座った席が、たまたま交わした会話が、たまたま好きな洋服が、恋をもたらすといった、それよりずっと表層的な条件が偶然であるということと、全くもって同じように偶然なのである。

 自らを認識者として設定し、認識者としての選択権を得ることで、対手を絶対的なものと独断する方法でしか成立しないように見えた恋は――それは受難するということと同義である。なぜならその成立は対手にとって自分が絶対的な存在であることを決定できないことが運命づけられているからだ――しかし偶然の遭遇でしかありえないという立場で見るとき、初めて自他の非対称性を脱け出すことができる。

 愛を囁きあうということは、自分にとって相手がどれだけ絶対的か伝えようとすることである。愛を囁きあうということは、相手にとって自分がどれだけ絶対的であるかを伝えてほしいと願うことである。愛を囁きあうということは、しかしついにその言葉を聞くことができないということである。なぜなら恋は本来偶然でしかありえないものであり、自分で対手の価値を独断するという手段でしか、その絶対性は担保されず、その担保を対手に求めることはできないからなのである。

 川端康成の「みずうみ」という小説では、主人公は絶対性を病的に信じ、道ですれ違った女性と恋愛関係になりたいと切望する。たまたま同じ職場だったり、たまたま隣に住んでいたり、たまたま会話を交わすことがあったなら、そこから関係が始まったのかもしれないのに、どうしてたまたますれ違った人と関係を築くことは不可能なのだろう、という素朴な問題意識が、そしてその願いの痛烈さが、この小説の一貫したテーマになっている。しかし街を歩けばわかる、この世には人が溢れかえっていて、しかもその誰一人特別な人など存在していない。狂気とは、全く同質で等価なもののなかに、特別な価値をもつ個人を見出す発想自体のことであり、みずうみの主人公のような、すれ違っただけの女性をしつこく付け回す行為の異常性は、しかし世にはびこっている一般的な、健全なものと見做されている恋というものの異常性と全く同じものなのである。

 

身体を語ること

催眠とはなにか、トランスとは何かと問われたとき、僕は「催眠とは身体を語られること」だと答える。催眠とは、自分自身というもの、自分自身と見なすものにおける断層の発見であり、自分自身だと信じているものを他者に明け渡し、真に自分自身であるものへ没入することだ。五感からの断絶が眠りの性質を構成しているなら、本来睡眠こそ、擬似的な催眠だとみなすことができる。そこでは自分だと信じているものから切り離されはするが、手綱を離そうとはしないからである。死は味気ない。死は神秘でもなんでもない。自分自身というものこそが唯一無二の神秘に他ならない。それは自分自身だと見なしているものではない。

脱線

人生とは何か
ゆっくり傷ついていくこと 
人生とは何か
ゆっくり知っていくこと

人生とは何か
目を背けること
人生とは何か
目を背けさせること

人生とは何か
愛さずに愛すること
人生とは何か
愛されずに愛されること

人生とは何か
知らない匂いを嗅ぐこと
人生とは何か
知ってる匂いを思うこと

人生とは何か
知らずにはいられないこと
人生とは何か
在ることをやめられないこと

人生とは何か
小さなしこりのこと
人生とは何か
いることに失敗し続けること

人生とは何か
ゆっくり知っていくこと
人生とは何か
ゆっくり傷ついていくこと

影としての存在

洞窟の比喩。イデア論には本物があるという強い信仰があるが、というよりも、似姿ばかりあるということのほうが本当だ。似姿を真実だと思いこむことが幻想であることは事実だが、それ以上に、本体を信じることのほうがより幻想的である。認知とは、似姿を似姿とはっきり見ることにあり、その本体をどこにも見ないということである。

死と生について思うこと

 昔から30くらいが死に目かなと思っていたが、その年齢を来年に控えて、自分の予感は正しかったのかもしれないと思うようになってきた。紆余曲折経て自分の死生観が固まってきたので、ここに書いておこうと思う。

 論理的に考えて行くと、生というのは全然割に合わない。ギブアンドテイクの論理で行くと、生がテイクするものの多さに比べ、ギブしてくれるものなど殆どないことがわかる。論理で詰めていくと、どうしても死が最適解だという結論が導き出されてしまう。

 世間が言うように、死は悲劇、自死は悲劇というのは全くもって違う。年間3万人の自殺者がいるが、その何百倍もの人が自死を考えたことがあるのだから、自死というのはある意味特殊技能のようなものだと考えていい。僕は今将来のことを切に考えいろいろ選択肢を考えているが、死というのはかなり現実的な選択肢のうちの一つだ。自死というのは、数%の人しか合格できない資格を取って死という会社に就職するようなものだ。生きるのが死への道筋でしかない以上、自死は最短ルートを歩くことでしかそもそもない。

 街なかでたまに、動物の肉を食べるな!というデモをやっている。動物を虐げ殺し食うのは悪だ!その根拠は、動物がかわいそうだからだという。でも、この世にはかわいそうなもの、そして救われないものばかりだ。僕は中卒で、今から働こうと思うと介護や建築、清掃といった奴隷労働にしか就くことができない。僕もプラカードを持って、僕はかわいそうだ!とデモをすべきなのだろうか。どうしてプラカードを持って騒いだり行進したりする人はその効力を信じられるのだろうか。それがどれだけ馬鹿げた行為か自覚してないからだ。自覚していないから、それが彼らにとっては善行でありえる。

 世界遺産にインクをかけたり、工場の機械を破壊してまわるほうがずっと効果がある。社会福祉が成り立つのは、底辺層に轡をつける必要がある限りだからだ。家畜のように反抗する可能性のないものは虐げ続けられる運命なので、プラカードを掲げて歩き回っているだけの無害な人間は、本当は抗議者の次元にすら立てていないし、何ら家畜の役にも立ちやしないのだ。だから環境活動家たちがどれだけ浅はかな次元で的はずれな抗議をやっていたとしても、世間が迷惑する次元で抗議を行っていること自体はけして的はずれではない。

 世間が言うように生命は大切なものでもなければ重たいものでもない。偶像崇拝が当然になり神の名が妄りに唱えられる現代で、本当の意味で信仰と呼べるのは、生命の重さという観念だ。人は死ぬのが当たり前という論理的発想とそれを妄りに重くする幻想の距離を見よ。

 

私の神様

 今朝ある言葉がふいに降りてきて、それをメモ帳に書き留めた。今年に入ってから、自分を実務へ専念させようと決意して、詩を書くのをやめていたが、今朝書き留めたつぎの言葉はまごうことなく詩だった。

 神様がいないことを
 これほど欠損と感じているのだから
 私は無神論者ではないんだ

 これは「散々書いてきたから/書くことがなくなってきた/白い暮らしの中に/書かなくても良いようなことばかり/霞のようにかかっている」とさえ書いた過去の自分が、いままで書いたことのないような言葉だった。この三行詩を読んだうえで、自分の書いてきた詩を読み返すと、いままでそうとは思っていなかったが、無神論の立場を維持でも貫こうとした過去の自分の姿に驚いた。

光が死んで風になる
風が死んで海になる
海が死んで砂になる
砂が死んで影になる

 

小さな灯台
灯台よりも小さな月
昼間のように明るい喫茶店
人のように長居する影

 

そして、窓を通る
あまりに無数の視線
もし神様がいたならば
こんなに視線が溢れているはずがない

 あるいは宗教はクソだ - tapantaという露骨すぎる過去記事も存在していた。自分がどれほど手をつなごうとしてもつなげないものとして宗教を見ていたし、「良い宗教などない」というシンプルな発想はいまだに私の中にある。しかしながら、それは結局「自分は神を信じているけれど、それが既存の宗教のものとはかけ離れているだけ」なのではないか。そういう発想が自分の中からこう、ぽろっと出てきたのは新鮮だ。そうだ、自分は無神論者じゃないんだと思った。

 どうして自分は生きているのか、生きている意味とは何なのか!と強く問う限り、その欠損感・問いが残り続ける限り、あるいは「孤独」というものが、身の回りに存在する人や物との関係の中では解決できない何かであると信じられる限り、その人は無神論者ではありえないんだ。