一つの問題を乗り越えたならば、またすぐに新しい問題にぶち当たることは分かっています。
ではなぜ人はそのような無為な反復行為を繰り返すのでしょうか。
問題を放っておくことはできないのでしょうか。
問題は、人がそれを解くか解かないかという形では現れてきません。
不安や退屈という概念があります。
これらは取り組むべき問題に取り組んでいない状態を意味しています。
問題はそれに取り組まざるをえないから、問題なのです。
もちろん現実の諸行為に落とし込まれる時、それを避けることは可能になりますが、
現実のある行為を避けても、別の行為にかかずらわなければならない、それが問題なのです。
僕は昨日、これまでに自分が書いてきたものを見返しながら、ずっと間違えてきたんじゃないか、
自分はこの四年間、ずっと全く価値のないもの、意味のないものを書いてきたんじゃないかという絶望的な気分になりました。
でも今朝寝ぼけながら、ミルトンエリクソンが語っているつもりで催眠の文言をでっちあげ述べていると、
自分が書いてきたものが無価値に見えたのは、自分が次の段階へ進んだことを意味しているのだということに気が付きました。
僕は、そうだとは思っていませんでしたが、ずっと愛について考えていました。
愛について考えながら、それについて付随する性や孤独の問題について考えてきました。
自分がそのような問題に固執しているのは、生まれに問題があったんじゃないかと思っていました。
でも愛の問題は、けして僕だけの問題ではありません。
思えば僕以外の人間も、みんな、愛についての問題に固執しています。
ただその取り組み方が、僕はすこし違うだけなのだと思いました。
それは人と触れ合わず、孤独に過ごさねばならないことが深く関わっているかもしれません。
とにかく僕はその意味で、ようやく両親を許せたと思っています。
愛についての問題は、詩をかきはじめた2013年から今年に至って、少しずつ姿を露骨に現してきました。
僕が、自分が書いているものは欲望の表現にほかならないということに気がついたのは六月に入ってからのことでした。
そして不可能性に向かって歩いていくことはできない
可能性に向かって歩いていかねばならないと書きました。
1/3という詩はその発想を核にした孤独感をひとつのまとまりにしたものでした。
そしてその表現が他者にとっても意味のあるものである、
あるいはそうでなければ無価値であるという発想は、本来矛盾するはずのものでした。
そのことに気がついたとき、はじめてその覚悟が、現実的なものになったのでした。
それは自分に対する時、欲望を明らかにする期待を持ちますが、他者に対するならば、ただ不満・要求の表現にならざるをえないのです。
つまりそこで可能性への志向は、不可能性への志向にすりかわっていたのでした。
もちろんその表現に共感する他者がいる可能性はありますが、それはその表現自体の目的とは違う副次的なものにすぎなかったのです。
その誤り自体は反復的に僕を悩ませていましたし、もう人に詩を見せて云々することはやめようじゃないかと何度も思っていました。
しかし現実に抱いている孤独感に対処するためには、表現したものを他人への要求として、行為へ変換せざるをえませんでした。これは短期的には何かをした気分になる有効な方法でした。