tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

愛を囁きあうこと

 ふと息を吐いた。最近ずっと何かをしていて、眠るときにもすぐ落ちてしまうから、ぼーっとする時間がなかった。ずっと暇なのにぼーっとする時間がないというのはいささか奇妙なことだ。マッサージチェアに深く腰掛け、頭の中で今取り組んでいるパズルの解法を考えていると、テレビで幸せそうな夫婦の姿が流れていた。なぜ性関係は、より優れた相手を希求し続けることを要求し、この世にはパートナーより高い価値がある相手で必ず満ちているのに、幸せな夫婦が存在できるのだろう?

 創作の世界でより強調される「特別な存在」たち。ふと創作と現実を重ね合わせてみると、どれだけ現実に存在する人たちが「差のないような」人たちなのだろうかという気がしてくる。そうだ、そうなのだと、稲妻が走った。全ての人には、本質的な意味で、質的な差は存在しないのだ。いままでは現実の条件や長い間時間を共にすることで生まれる愛着、あるいは脳内物質が云々などという妥協的な発想だけで、幸せな夫婦について、なんとか納得するしかなかった。だが人間同士の差異というものは、その差異を前提とした世界にではなく、質的に本来差のない世界の中に持ち込まれ拵えられた二次的な要素にすぎないのだ。

 もう一度正確に言い直そう、性関係は明白な力関係に規定されており、その競争性は明らかであり、原則として性関係における個々は常により良い相手を探すものだ。現実の条件によって妥協したり諦めたりする水準を認めたにしても、個々の人間に優劣の価値をつけ決定することができ、パートナーが最も価値の高い相手である確率は限りなく低いという事実は変わらない。しかしながら、この前提があるのにもかかわらず、現実生活における不倫や浮気は、潜在的には多少あったとしても、想定されるほぼ100%の破綻という割合には遠く及ばない。さらにこの問いは、どうしてより良い相手を選ぶ可能性を制限してまで婚姻が、あるいは一途の重要さが一定の共通認識として担保されているのだろうか、という問いにも繋げることができる。そして、その答えは、すべての人間には質的な差異がないから、なのだ。すべての人間は質的に等価という前提が第一にあり、故に性関係や、社会規則、倫理といった二次的な関係がせめぎ合うことができる。性関係の法則と社会規則というのは対立関係にあるものではなく、全ては等価である本質から、それぞれの基準において諸構成要素を恣意的に細分化、差別化し、見事な価値体系の城を築き上げたものであり、並立関係にあっても、けして対立関係にはない。そのどちらかを本来的なものだとみなす所に、対立の構図が生まれるのみである。

 多様性などという言葉があるが、本質的には全ての人は等価なのだ。副次的に作り上げていくものだからこそ、恣意的に決定される価値体系は、逆説的ながら本来想像される以上にユニークなものになりうる。なぜ多様になるのか?と問うならば、多様性が人間に本質的だから、ではなく、本質的に同一だからこそ、いかようにも変化できるのだ。もし多様性がその本質ならば、それは限られたバリエーションのなかに類型化していく他にない。勿論実際には類型化していくのだが、それは彷徨うことに対する不安という全く別の文脈から起こる。(この実際問題はここで立ち入るにはあまりに枝葉の問題である。)

 平たく言えば、Aさんを選ぼうが、Bさんを選ぼうが、本質的には何も変わりはないのだ。恋において人と人の違いが、どこが好きでどこが嫌いかという条件の問題が、本来的な要素であるように見えるが、本来は、恋とは全ての対象に等しい濃度を取るはずなのだ。しかし、そこに「禁制」が持ち込まれる。そのたぐいの恋は、自らをある制約、条件、理由の中に縛り付けることによって生じる、言うなれば強迫的なものなのである。

 求めることの矛盾が――つまり個別の、特定の誰かを強いて選んで一つになりたいと願うことの矛盾が――生み出したロマンス――運命の人、アダムとイヴ、取り替えの効かない誰かという誤認――もし個別の誰かが絶対的な誰かであるならば、その関係の成立のためには、自分自身が絶対的な誰かであることが当然――無意識下に肯定される形で無視されるとはいえ――要求され、そして対手が絶対的な対象であることは認識者の特権として恣意的に決定できたとしても、同時に認識者の限界として、自分自身を対手における絶対的な対象として決定することは不可能である。自分が対手をどのように理想化したとしても、自分自身は常に、対手からすれば交換可能な誰かであることを免れ得ないのである――愛を囁きあうこと!

 原理的に破綻したそのロマンスは、しかし先に述べたように、恋の本質などではない。恋の本質はお互いがお互いにとって完全に交換可能なことにあり、彼が彼でなければならないことの――彼女が彼女でなければならないことの――根拠はあくまで条件として生じるものに過ぎない。ここでいう条件とは、恣意的な、というよりも、"たまたま生まれる"もののことである。

 しかし、人は人をたまたま恋するわけではない。人は人を必然的に恋する。しかし特定の誰かをではなく、他者である万人を恋するように定められている。だが条件の中では特別早い段階に訪れる禁制が、万人を恋することを禁じるのである。(ここでは詳述しないものの、禁制という概念は説明するのにそれほど難しい概念ではない。)禁制はそれ自体が条件であり、ゆえにたまたま齎されたものである。それ以後の条件もまた偶然齎されたものに限られ、それはたまたま座った席が、たまたま交わした会話が、たまたま好きな洋服が、恋をもたらすといった、それよりずっと表層的な条件が偶然であるということと、全くもって同じように偶然なのである。

 自らを認識者として設定し、認識者としての選択権を得ることで、対手を絶対的なものと独断する方法でしか成立しないように見えた恋は――それは受難するということと同義である。なぜならその成立は対手にとって自分が絶対的な存在であることを決定できないことが運命づけられているからだ――しかし偶然の遭遇でしかありえないという立場で見るとき、初めて自他の非対称性を脱け出すことができる。

 愛を囁きあうということは、自分にとって相手がどれだけ絶対的か伝えようとすることである。愛を囁きあうということは、相手にとって自分がどれだけ絶対的であるかを伝えてほしいと願うことである。愛を囁きあうということは、しかしついにその言葉を聞くことができないということである。なぜなら恋は本来偶然でしかありえないものであり、自分で対手の価値を独断するという手段でしか、その絶対性は担保されず、その担保を対手に求めることはできないからなのである。

 川端康成の「みずうみ」という小説では、主人公は絶対性を病的に信じ、道ですれ違った女性と恋愛関係になりたいと切望する。たまたま同じ職場だったり、たまたま隣に住んでいたり、たまたま会話を交わすことがあったなら、そこから関係が始まったのかもしれないのに、どうしてたまたますれ違った人と関係を築くことは不可能なのだろう、という素朴な問題意識が、そしてその願いの痛烈さが、この小説の一貫したテーマになっている。しかし街を歩けばわかる、この世には人が溢れかえっていて、しかもその誰一人特別な人など存在していない。狂気とは、全く同質で等価なもののなかに、特別な価値をもつ個人を見出す発想自体のことであり、みずうみの主人公のような、すれ違っただけの女性をしつこく付け回す行為の異常性は、しかし世にはびこっている一般的な、健全なものと見做されている恋というものの異常性と全く同じものなのである。