tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19.12.16-1

夜中。インターネットサーフィンをしたあと自分が書いたものを読み直し検討。

彼女の気持ちになろうと思って考えてみるとき、僕はその難しさに気がつく。主体性というものと主体性というものの距離。人の気持ちになって考えよう、ということがあまりに難しく、謎として残るから、だから他者は特権的なのだ。もしそんなことが可能なら、つまりそれが「死のような本質的な謎」でなければ、僕等はこんなに苦しまずに済んでいたはずだ。本質的な謎ということ。それは他者の謎というよりも、主体性というものの謎だ。つまり僕は彼女の気持ちになってみようとして、自分が普段どのように、主体として感じたり考えたりしているかという難しさに突き当たるのだ。主体性というものの謎。僕はどうしてこうなのか。

 彼女の気持ちになって考えるためには素材が少なすぎる。素材の少なさについて考えていると、人間同士の関係のげんかいが早々に立ち現れていることに気がつく。なんて浅い段階での限界。

 つまり僕がここで話しているのは…本性的な孤独についてなわけです。君は孤独ではないんですか?いや、君はその意識を持たないだけで、やっぱり孤独なんです。それが君の無意識を支配している、つまり君が関係したがるのはその孤独が原因なのです。考えてみれば明らかすぎる、人間というもののあまりの孤独、つまり他者からの断絶…それは死に通じているが…僕は孤独というものについて考える気になっている…。

 つまり孤独という「感じ方」、通俗的に言えば寂しさ、を通じれば、僕が「死の恐怖」と呼んでいる人間の根源的な感情をより的確に捉えることができるという発想が天啓のように…

 孤立と裏切り。もともと存在する甘い共同感の罠。それが彼を縛り付ける…信頼できるものはないという「現実」。支えが失われる、孤立…孤独‥恐怖‥つまり僕らは、本当は大丈夫じゃないのに、みんなで渡れば怖くないという根源的な態勢を取っている。恐怖、恐れ、裏切らないで!という切実すぎる要求。自分が哀れだから、人を憐れまなければいけなくなるという構図。