tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19.12.13

午後二時に起きる。空白。昨日応募した清掃のバイトの面接が明後日、日曜日の午後一時に決まった。起きられるかな。
 「可能性について」12.13
 猫に芸を教えているとき、猫が僕の手を噛んだ際に餌を落としてしまい、それから猫が僕の手を噛めば餌が貰えるのではという困惑に陥ってしまった。
 噛もうか噛ままいかという葛藤。結局噛まないことを選ぶのだが、結果的に僕の手を見ただけでその葛藤という苦痛に陥ること自体を恐れ、逃げ出すようになってしまった。単純なのに複雑な心理。僕がもし猫だったら、この葛藤がそのまま思考へと移行するだろう。その題名は「噛むか噛まざるか」あるいは「手というもの」。これは冗談ではない。人間の「思想」というものの起源だって同じ様な葛藤にある。つまりその「事故」以来、猫には手を噛めば餌が生じるという「可能性」が生まれてしまった。この「可能性というもの」は厄介だ。つまり時間の経過によって弱まるか倫理的に抑圧されることで、それを避けうるとしても、もはやその可能性が完全に消されることはなくなってしまった。それはもはや「寛解しない病」として猫の中にとどまり続けることになる。それは乳房というものが個々人における可能性として残り続けるのと殆ど同じだ。(ここで疑問、哺乳瓶で育てられた乳児は乳房フェチを一義的には免れるか否か)。このとき男性は時間の経過によって、女性は倫理的抑圧によってその「可能性への欲求」を防ぐ。ここで無視してはいけないのは、乳房というものには二次的な価値が与えられているということだ。世俗的に言うところの社会的価値が、それには与えられており、だから哺乳瓶によって育てられた男性もそれに興奮を覚えても不思議ではない。だが本能的与件という言い方を認めるか否かは大問題である。

 以上の文章は今日起こった出来事をTwitterに投稿したものだ。僕は昨日から「自ら無効と呼ぶ行為を結局は繰り返すこと」に焦点を絞って考えていたから、この体験は「棚から落ちてきた」。可能性という寛解しない病。それは欲するものに対しての可能性であり、第一義的な目標は欲求の満足であり、第二義的な目標は「知」である。そして、未知、無知、は避けられないものとして残り、そして同時に可能性の余地を残し続ける。「試したくなる」傾向。このとき対象とはその試行に関連付けられる諸対象のことを言う。
 可能性という檻。それが根源的に不可能であると認める時、可能性は時間性に対する、つまり死との距離に対する「麻酔」として機能する他なくなる。
 それでも僕は未だ、あえて問うだろう、「善とはなにか」と。つまりそれは可能性の尖端だから。それは可能性なるものが不可能性でなく殆ど可能性でありえるところの、つまり引き絞られた弓の限界点を構成している。絶望の淵に立つもの、善。主体の欲望は、苦が存する限りの全能である。苦は存する。特に未来という未知は偏在する苦である。このとき知、全知は、それに続くものとして欲望される。知の優位性は「知りうる」という自信に存在する。知の探求はとめどない。善、ゴールではない目標点。小目標。それがもたらす満足。有効であるもの。その有効性の根拠はどこにあるか。知の確認。言語的能動性の確認。可能性。苦の解消。

 僕は死にたいという欲望を当然のものとして据える。エピクロスの言うように快が苦の解消に過ぎない以上、本質的には一切皆苦である現状、生きていたい筈がない。生の最大の問題は死にたいのに死ねないということだ。そして、だからこそ自分を産んだ親を恨むなどという問題の逸しを嫌悪する。即座に死ねないという事実が示すそこにある死への恐怖。とく死なばや、それが切実な願望であるという事態。そして同時に、それが怖くて死ねないという地点でより切実に響くという事実。
 同時に生の始原には、知の獲得が余りにそれを飲みやすくしたという事実がある。知と言う支えが苦から主体を救った。そして知への信頼は死という未知を果てしない恐れへ放り込んだ。生の欲望とは知への信頼を根拠とする死への恐れ、死の否認による、死の欲望の抑圧、あるいはそれへの反抗のことだ。実際僕らが生きているという事実が、死の欲望以上に生の欲望のほうが強いということを意味している。生は知によって、なんとか生きていられる、受け入れられるものになった。その葛藤は普遍的である。僕らの最大の課題は死の受容、そしてそれに準ずるものとしての生の受容である。死の受容のほうが根源的であるが生の受容は、どうしてもなされねばならないという切実な形で訪れるがゆえに、本質的である。
 僕らは他者を知者としてみなす可能性を刻印されている。だから他者は善である。善であるというのは、彼らが死からも僕らを救いうる存在であるという幻想を、僕らは生涯振り払えないということである。だからコミュニケーションは果てしなく有効である。僕らは他者によって救われる。生についてはそうして果てしなく考えが巡り、死についてはほんの少しも考えることができないという状況、これが僕らの生の条件である。愛とは知への愛である。知の想定とは可能性の想定である。それは大真面目な魔法の想定である。魔法とは一挙に問題が解決する地点のことだ。僕等は他者と愛において関係するとき、大真面目に魔法の可能性を信仰しているがゆえにその関係の中に喜びや悲しみを見出す。だがそこには「関係において突き当たるもの」がある。
 愛する人との対話が彼を救うとき、その救いは本質的に奉仕の喜びである。つまり言葉を話すことで愛する者の要求に応じているという自覚が彼の「効力感」を支え、満足をもたらしている。効力感。それは例えばゲームにおいても、本質的には要求、要請への奉仕の喜びである。それら愛の奉仕の奇妙さは、それが常に無償の奉仕であることにある。報酬がなくともゲーマーはゲームに依存し愛するものは愛に依存する。内的報酬。要求するものの喜びがその報酬にとってかわる。どうしてそれで十分なのか。(あるいは、それは完全に十分ではないのだが。) もちろんこの場合の「奉仕」は多くの場合相手の真実の要請に応えていない、独りよがりなものである。ボランティアが多くの場合自慰的であるのは世俗的な水準でも了解される。それは盲目性がそうさせるところのどうしようもない残念な現実だ。彼が奉仕の満足を得られる限り改善されないのだ。
 知の想定とは自分にとっての未知の想定であるが故に必然的に他者に謎を想定する。僕らが他者を未知と捉えそこに謎を見出し、死とは違った可能性を見出している以上、その関係を断ち切ろうとすることは必然的に死の受容、あるいは死の受容への対面として現れるほかがない。逆に言えば他者との関係に励む間、僕らは死の受容から逃避しているのだと言うことができる。死の受容とは言葉では簡単だが、それ自体が一つの不可能性だ。なぜなら死は謎だからだ。だから死に向き合うことと他者に向き合うことは謎への対峙に身をやつす点で奇妙な一致を見せている。