tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19.12.14

午後一時に起きてのんびり。ぼんやり。去年はブログにどんなことを書いていたっけなと思い過去のHPやブログを捜索していた。ひとつだけ、2017年の8月、一ヶ月の間書いていたものが見つかった。


==== 昨日書いたあの無駄だらけの文章を箇条書きにして整理した。

(0)第一義的な目標は欲求における苦の解消であり、第二義的な目標は「未知ないしは不知」における不安の解消である。
(1)快が苦の解消に過ぎない以上、本質的には一切皆苦である。生の問題は死にたいのに死ねないということだ。労苦を忌み嫌いながら未だに生きているという事実が示す死への恐怖。
(2)僕らの課題は死の受容、つまり今死ぬこと。そうでなければ、生の受容、労苦を受け容れること。
(3)愛とは知という支えへの愛である。知は愚かな能動性を導く「マリアンヌ」である。どうすれば苦痛から解放されるか。知への信頼が死という「不知」の象徴を恐怖の中へ放り込んだ。既知、自分の持っている知への信頼は確実だが矮小だ。他者の持っている知、未知への信頼は偉大だが不安だ。
(4)僕らは他者を知者としてみなす可能性を刻印されている。知への愛において、他者を愛する可能性を刻印されている。他者は可能性として善である。善であるというのは、彼らが死からも僕らを救いうる存在であるということだ。他者の可能性とは知の可能性だ。僕がまだ知らないことを他者が知っていると想定することだ。だから「知ることは出来ないと知ること」ができない限りに於いて他者という可能性は「知の探求」の中で生き続けることになる。
(5)知との対話。知そのものを担わないとき、主体は能動性を担う。奉仕。彼女は僕の能動性を導く存在である。だから愛するものは語る。愛するものは抱く。愛するものは愛する。それは愛からの要求だから。死とは違った可能性。他者とはそれが謎で現れる限り「行為の溜まり」だ。そして諸「娯楽」が同様に、愛の奉仕、要請への応答として現れていることに注意しよう。愛の支えは善い他者からの応答である。そうして彼/彼女との関係を繋ぎ止めている限り、彼/彼女という船が僕をどこか善いところへ連れて行ってくれるだろうという期待。未知なるものにおいて他者というものに転移が起こる、他者が善なるものとして生じる、その本質は「他者が言葉を語るもの」であることにある。

その他の簡潔な問答。
(Q1)なぜ異性を欲するか。
(A1)欲望とは謎の欲望であり、それが何の的を射ようとしているかわからない欲動だ。だからこそ、逆説的に欲望は固着する。つまり根拠を別に拵えて何かへ張り付く。それが他者の欲望とラカンの呼んだ外的秩序なのだ。欲望の対象はある選択肢の中で一つのものを措定し目指すことになる。だからそれは何を対象に据えたところで、それを対象に据えることの無根拠性、つまり謎を抱えることになる。ホモセクシャルがなぜ自分は同性を求めるのだろうと思い悩んだとして、彼がヘテロセクシャルに変わったところで、なぜ自分は異性を求めるのかという疑問へすり替わるだけであるように。だから欲望の謎は対象措定の水準では語られるに値しないのである。欲望の対象が帰納的に導かれるとき、その動因には深く自らの立ち位置の決定が関わっている。僕は彼女を欲しているということは、それが知の想定であるということさえ分かっていれば、掘り下げる余地のないものだ。男性の心に根付く、女性に対する後ろめたさ。問題は異性は主体の「不能性」を徴示するという一点にある。不能性とは屈辱感であり、主体を不安にさせるもの、主体を興奮させるもの、急き立てるものだ。
(Q2)なぜ行為は億劫か。
(A2)他者の要請への疑念が行為の億劫さを齎す。