起きてから六時間。何もやっていない。
その代わりに珈琲を四杯も飲んだ。
二日ぶりに風呂にも入った。
その第二楽章。
抑圧的な楽曲の中でふっと美しい第二主題が現れて、かとおもうとすぐ消える。
・・・・・・。
この数日間、やることのない時間は心の平安について考えている。
やることのない時間に同化すること。でも、それでいいのか?
アガルマ、それは知の想定と呼ぶより、謎の想定だ。
そこで問題になる第三者性。
女を通じて見えるものは必然的に男だ。
僕が欲しい物、それは『理想の女』だ。
『理想の女』を手に入れてしたいこと、
それは理想の男に愛されることだ。
絶対的な安心感。それは母の腕ではなく父の腕なのだ。
しかしそれは現実的なものではない。
現実の男は下らない。それは僕の得たひとつの真理。
つまるところ男の根源的な欲望とは女になることだ。
男が同性愛者を嫌悪するのは、
つまらない男を愛する同性愛者の浅薄さを嫌悪しているのだ。
なぜなら男が志向する女は理想の男に愛されねばならず、
それは下らなくしかあれないという宿命を負った現実の男には到底届かない者だからだ。
だから同性愛者の目は曇っている。
それは異性愛者が異性を見るときの目の曇りよりも深い病因を持っている。
だから女の目は曇っている。
それは同性愛者の目の曇りに等しい。
彼女らに出来るのは下らない男に愛されることだけ。
失望のイメージ。
しかし多くの場合、失望は素直な形では訪れない。
君は誤っているという説得。どうしてだろう。
理想の女と決めた女性が失われることへの恐怖。
そもそもそう簡単に失望するくらいなら見間違えたりしないのだ。
問題は目の曇りにある。
主体は恐怖に晒されている。常に避難所を求めてさまよい歩いている。
不可能性という謎は命令法として訪れる。
せよ、獲得せよ、君が手に入れていないものを。
君が手に入れうるものを。
人と関係しないことの恐怖。その原因は?
人と関係することの恐怖。その原因は?