tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19-12-20

失われてしまったものと性対象との関係性。

それが汚れた感情?とんでもない・・・。

汚れているというのは性的接触の外傷性に由来するイメージだ・・・。

性的欲望、それは極めてナイーヴだ。壊れやすい、感じやすい。切ない。

理想的な関係が、それが男性においても女性においても、

母子関係として生じるほかがないことに注意しよう。

だから「現実的」関係はどのような意味でも譲歩としてしか成り立たない。

・・・・・・。

 

関係とは第一の条件だ。だから孤独でさえ不在との二者関係のうちにある。

不在との関係は特有の関係だ。それは解放でもあり疎外でもある。

どうして関係に囚われているかという問いが可能である。

だからこの問いにきちんと向き合わねばならない・・・。

 

自己愛。対象愛が、最も純粋な自己愛であるとき、

自己愛というものはむやみに使われてはならないほど、

大きな領域を孕むものであることがわかる。

性的欲望・・・。それは一応抑圧されているが、

欲望そのものとは違って極めてイメージ化しやすい。つまり露骨だ。

 

それが「理想自我」との乖離において現れるとき、

つまりある種の「プライド」を根拠に抑圧された「マゾヒズム」的満足であるとき、

「自我理想」 と「理想自我」の区別はそこではっきりとつけられる。

マゾヒズムの反対は万能的自己へのイメージにあって、

それはけしてサディズムではない。それが理想自我である。それは「万能」である。

 万能とは、しかし条件付き満足の体系のうちに位置付けられた最高峰である。

マゾヒズム的満足の秩序は、無条件の満足という極めてナイーヴな体系である。

 ・・・・・・。

 

男性器的快楽の後に続く興奮の撤退。

それは性的満足という強い屈辱からの男性的復権の試みである。

性的欲望・・・それはいつでも屈辱的なもの、マゾヒスティックなものだ。

サディズムとは「主義、態度」のカテゴリにおける鑑だ。

なぜならそれは自らの「マゾヒズム」という「性向」への「態度」であるからだ。

性的倒錯は、つねにマゾヒズムからの迂回においてはかられる。

マゾヒズム、解放、培わねばならなかったものからの解放・・・。

 

僕はこの数日間、「セルフイメージ」「理想自我」の重要性について考えていた。

しかし本来それは、不要なもの、ないほうがいいもの、関係したくないものである。

そしてだからこそ重要なものなのである。

つまりそれはあくまで責務、義務として負わされているものである。

命令法・・・。

 

「欲望とは他者の欲望である」というふざけた言い回しを、

僕はあいまいな言い方で置き換えよう。 

「欲望とは幼児的欲望のことである」

しかしそれはけして乳児的欲望ではない・・・。

 

今日は午後十時に目が覚めた。

晩飯を食べて、午前一時からぼーっとコーヒーを飲みながら思索。

この二年間の間に少し読んだくらいだが、

僕にとってラカンは役に立っただろうか?僕にはよくわからない。

フロイトに戻らねばという気がしている。フロイトを読もうという気がしている。