失われてしまったものと性対象との関係性。
それが汚れた感情?とんでもない・・・。
汚れているというのは性的接触の外傷性に由来するイメージだ・・・。
性的欲望、それは極めてナイーヴだ。壊れやすい、感じやすい。切ない。
理想的な関係が、それが男性においても女性においても、
母子関係として生じるほかがないことに注意しよう。
だから「現実的」関係はどのような意味でも譲歩としてしか成り立たない。
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関係とは第一の条件だ。だから孤独でさえ不在との二者関係のうちにある。
不在との関係は特有の関係だ。それは解放でもあり疎外でもある。
どうして関係に囚われているかという問いが可能である。
だからこの問いにきちんと向き合わねばならない・・・。
自己愛。対象愛が、最も純粋な自己愛であるとき、
自己愛というものはむやみに使われてはならないほど、
大きな領域を孕むものであることがわかる。
性的欲望・・・。それは一応抑圧されているが、
欲望そのものとは違って極めてイメージ化しやすい。つまり露骨だ。
それが「理想自我」との乖離において現れるとき、
つまりある種の「プライド」を根拠に抑圧された「マゾヒズム」的満足であるとき、
「自我理想」 と「理想自我」の区別はそこではっきりとつけられる。
マゾヒズムの反対は万能的自己へのイメージにあって、
それはけしてサディズムではない。それが理想自我である。それは「万能」である。
万能とは、しかし条件付き満足の体系のうちに位置付けられた最高峰である。
マゾヒズム的満足の秩序は、無条件の満足という極めてナイーヴな体系である。
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男性器的快楽の後に続く興奮の撤退。
それは性的満足という強い屈辱からの男性的復権の試みである。
性的欲望・・・それはいつでも屈辱的なもの、マゾヒスティックなものだ。
サディズムとは「主義、態度」のカテゴリにおける鑑だ。
なぜならそれは自らの「マゾヒズム」という「性向」への「態度」であるからだ。
性的倒錯は、つねにマゾヒズムからの迂回においてはかられる。
マゾヒズム、解放、培わねばならなかったものからの解放・・・。
僕はこの数日間、「セルフイメージ」「理想自我」の重要性について考えていた。
しかし本来それは、不要なもの、ないほうがいいもの、関係したくないものである。
そしてだからこそ重要なものなのである。
つまりそれはあくまで責務、義務として負わされているものである。
命令法・・・。
「欲望とは他者の欲望である」というふざけた言い回しを、
僕はあいまいな言い方で置き換えよう。
「欲望とは幼児的欲望のことである」
しかしそれはけして乳児的欲望ではない・・・。
今日は午後十時に目が覚めた。
晩飯を食べて、午前一時からぼーっとコーヒーを飲みながら思索。
この二年間の間に少し読んだくらいだが、
僕にとってラカンは役に立っただろうか?僕にはよくわからない。