tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19.12.24-2

これは喩え話だけど、ゼロからやり直そうという気がしている。

明日は14時に起きなければならないから、今から眠れば七時間眠れる。

どうして未だ起きているかというと、自分でもその理由はよく分からない。

昨日まであれだけ僕を虐めていた抑うつはなんとなく引いたような気がする。

文字を書いたりすることで一応暇を潰していた。

無為という二字が未だに僕を苛む予兆はあるがなんとなく回避できている。

 

 風邪 高田被葉

しばらく風邪を引いていたようだった
心の病とは良く言ったものだ
それは素晴らしい喩えなのに
もはや喩えではないように認知されている

心の病というのは喩え話だから
不治の心の病というのは二重の喩え話だ
喩えを重ねて真実から遠ざかるために
喩え話は生まれたわけではないのに

病は治るから病なんだ
心の病というものは必ず治るんだ
だから僕は永遠の苦しみのような病を抜けて今
こうして詩を書いている

あれからもうずっとやることのないままの僕だ
でも何もやらなくても健康な間はそれで済んでいる
生活は辛いからまたいつの日か病むだろう
健康な間に次病む日のことを考えておこうと思った

 

病は必ず治るなどという言い方は、

アメリカ的だ」と精神分析学から叩かれるだろう。

そのことはずっと承知で、でも「病」の水準をずらして、

僕はあえてそう言った。概ね満足ということはありうることだ。

 

僕にとってアメリカ的発想が蔑むべきものであったように、 

今の僕にとって精神分析学も同様に自己矛盾の学問だ。

言葉の裏側に位置する生活から享楽を得てきているのに、

そのことについて触れない卑怯者のやり方だ。

 

生活の辛さは大抵望むものを得られないことの辛さだ。

望むことが現実という壁に阻まれた時、「病み」が生まれてしまう。

でも、望むということは生きている以上避けられないことだ。

仏教は望むことを避けられるというけれど、僕はそれを信じない。

 

だから、本当のことを言うならば、

自分が「望んでいること」への知をもし得られるなら

それが一番良いんだけどなと思っている。

でも、それは非常に難しいことだ。