ハッピーエンドという悲劇。創作が創作という役割を果たすために、ハッピーエンドなどという形を取らなければならないという悲劇・・・。
昨日午後十時に起きて今までずっと起きている。
伏見稲荷を歩き回れるというゲームがSteamにある。
このゲームを三分ほど周った後、帰ろうと思って出口に向かったが、塞がれていた。
僕はつい最近まで、道がどこまでも続くということの意味を想像できなかった。目の前の道が同様の連続性を持ってどこまでも続くということの想像が全くできなかったのだ。
駅と駅の間を歩いたりするようになってから、等身大の、眼前の道が、どのように連続するかということについて、ようやくイメージができるようになった。
そんなことを思い出した。