午前二時半起床。ベッドの中でいろいろなことについて考えていた。
他者の語り、語りの前の語り。僕らはそれをついに、互いに聴くことがない。
しかも、それは自分自身についてさえ、である。
自分の語りでさえも、「表出された範囲での語り」でしか把握できない。
だからそれを聴きたいと望む。
他者に対しても、自身に対しても、その「内的な語り」を。
もう少し過剰に言えば、分析的構造について誤解している。
それは露骨な「性関係」である。
しかも患者から見た場合でも、分析家から見た場合でも。
しかも性風俗店より性的欲望に対して本質的だ。
そして精神分析的性関係は、患者の語りにおいて支えられる。
精神分析家が他者の「内的な語り」を聴きたいと望むことにおいて。
そして、そう望み、その構造を、つまり「語らせること」の実現は、
日常的関係においてどれだけ難しいだろうか。
精神分析とはそのようなもののことだ。
内的な語りとは、乱暴に言えば「思い」のことだ。
そしてその「思い」にたどり着くことができない。
ただ表出されるそれに対して「思い」を推測することができるだけ。
欲望の声を聴きたいという願望。
そこには双方向的な「他者の内的な語り」の想定がある。
それはまさに内的な語りという、聞こえない語りの想定である。
それが精神分析家にとっては、まさにいまそれを聴くという幻想のもとで顕現する。
それは「知の想定」である。患者が精神分析家に知を想定するように、
精神分析家は患者に知を想定する。だから患者の語りを聴こうとする。
何を考えているのかわからない、あるいは、
何を考えているのかわからないはずなのに、わかるように感じられる。
それは内的な仕事として引き受けざるをえないもの。
――
重要なのは、「他者の語り」という想定と、「他者像」とが別々のものとして存在しながら、ひとつの「他者」という領域を徴示しているということ。
乳房と陰茎は想像される限りにおいて、同様に性的である。それはそのものの性的決定性を示唆するものだから。
性的な意味での理想的他者像に、性的決定性を見ることによる「性的欲情」。
性的象徴を介して獲得する快楽の重要性。そして行為、快楽のそれ自体の重要性。
複数の要素が「性関係」に凝結しているということ。