tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19.12.27-1

午前二時半起床。ベッドの中でいろいろなことについて考えていた。

他者の語り、語りの前の語り。僕らはそれをついに、互いに聴くことがない。

しかも、それは自分自身についてさえ、である。

自分の語りでさえも、「表出された範囲での語り」でしか把握できない。

だからそれを聴きたいと望む。

他者に対しても、自身に対しても、その「内的な語り」を。

 

精神分析家は「自由連想法」の構造について誤解している。

もう少し過剰に言えば、分析的構造について誤解している。

それは露骨な「性関係」である。

しかも患者から見た場合でも、分析家から見た場合でも。

精神分析」は性風俗店にほとんど等しい。

しかも性風俗店より性的欲望に対して本質的だ。

 

そして精神分析的性関係は、患者の語りにおいて支えられる。

精神分析家が他者の「内的な語り」を聴きたいと望むことにおいて。

そして、そう望み、その構造を、つまり「語らせること」の実現は、

日常的関係においてどれだけ難しいだろうか。

精神分析とはそのようなもののことだ。

内的な語りとは、乱暴に言えば「思い」のことだ。

そしてその「思い」にたどり着くことができない。

ただ表出されるそれに対して「思い」を推測することができるだけ。

欲望の声を聴きたいという願望。

 

そこには双方向的な「他者の内的な語り」の想定がある。

それはまさに内的な語りという、聞こえない語りの想定である。

それが精神分析家にとっては、まさにいまそれを聴くという幻想のもとで顕現する。

それは「知の想定」である。患者が精神分析家に知を想定するように、

精神分析家は患者に知を想定する。だから患者の語りを聴こうとする。

 

何を考えているのかわからない、あるいは、

何を考えているのかわからないはずなのに、わかるように感じられる。

それは内的な仕事として引き受けざるをえないもの。

 

――

重要なのは、「他者の語り」という想定と、「他者像」とが別々のものとして存在しながら、ひとつの「他者」という領域を徴示しているということ。

乳房と陰茎は想像される限りにおいて、同様に性的である。それはそのものの性的決定性を示唆するものだから。

性的な意味での理想的他者像に、性的決定性を見ることによる「性的欲情」。

性的象徴を介して獲得する快楽の重要性。そして行為、快楽のそれ自体の重要性。

複数の要素が「性関係」に凝結しているということ。