tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

不可能性について

 このブログのタイトルが可能性についてになったのは、不可能性についてというサイトを先に用意していたからだ。「現実」が不可能性を代表し、「言葉」が条件及び禁止を代表する。すると条件からは想像的な可能性が浮かび上がる。この発想はジャックラカンという思想家による「現実界」「象徴界」「想像界」という三つの観点で世界が覆えるという発想に由来している。ラカンはこの三界が、まるで平面的に並んでいるような図(ボロメオの輪)を提示したけれど、僕はどうしても現実界が一番大きなものであるように夢想してしまう。あるいはラカンのこの図が示しているのは、過大評価される現実界を去勢する意味でもあるのではないかと思う。つまりどうしようもなく巨大なものと感じられる不可能性というやつの去勢。

 不可能性、わざわざ語るまでもないこと。昨日の夜、図書館から借りてきたCDを割ってしまい、眠たかったこともあり怒り心頭に発した。憂鬱が長く続いた日々で二ヶ月ぶりくらいの怒り。それはどれだけ快い苦悩であったか。踏んづけたCDもよりによってブルックナーオルガン曲集などというどうせろくに聴きもしないCDで、しかも絶版らしく2500円で弁償しなければならない憂鬱なやつだった。朝起きて思い返せば激怒するようなことではないのだが。昨日歯も磨かずにベッドでうつ伏せになり目を瞑りながら考えたこと。怒りはいつでも人に対しての怒りである。権威者に対する怒り、権威者に対する自分のへつらいに対する怒り、性的優位者に対する怒り、劣位者であることに甘んじる自分に対する怒り。それらが結局は全て他者へ力を想定すること、彼らが不当に享楽を得ていると不満を言うこと、に基づいていることに気がついた。享楽とは、ラカンの用語であり、それはラカン自身によってもいろいろな解釈があるが――それは誰も手にしないもののことであり、同時に誰かが手にしていると想像される喜びのことである。それはある種の完成であり、そこへ辿り着いたらもはや苦しみを味わわずに住むような境地へ移行する、そういう喜びを得ること、またそういう喜びを他者へ想定してしまうこと、それが享楽というものの僕の解釈だ。それは要するに主体が苦しみを自分のものとして感じるのに対し、他者の苦しみというものが主体的に得られないということの不安に由来しているのであるが、これは同時に主体が喜びというものを感じるのに他者の喜びというものを主体的に確認できないということの不安、しかも後者は優越感を伴う不安、の存在を示唆している。というよりもその両方を起源として享楽という想像は紡がれている。つまりある一方では他者を非難する意味合いで想像され、もう一方では他者へ享楽を期待する意味合いで想像されている。

 昨日は午前0時30分ほどに寝て、今朝は7時50分に起きた。体調はすこぶる良いが、昨日書くつもりだった文章を書かずに寝てしまったため、またその内容は失われてしまったため、その反動として今朝の文章が紡がれることになった。この観念的な内容、それは誰かに伝わることが余り期待できない内容。僕は友部正人とは違う。観念において肥大化し、現実において矮小化する。僕は一凡人にも至らない。人と目が合わせられない。人と会話ができない。人と心的交流を交わせられない、そういう人間である。僕は自分について書くことで自分の思想を相対化しようとしている。今日もこれであとは午後六時まで機械的なタイピング作業である。家に帰って寝てまた明日も一日機械的なタイピング作業である。僕が仕事という奴に出会って狼狽しているところの最大の原因は固定された時間である。それは避けることができない。それは変えることができない。何が起こっても同じ時間にあたかも固定された空間のように待ち構えているのである。

 可能性について。可能性というやつは不可能性を前提にするときにだけ本来的である。つまり可能性として感じられる。可能性があって当然だと感じられるとき、可能性はそれ自体が不可能性の強調へと転化する。あとから生じる不可能性などというものはない。僕らはまず不可能性という動かし難い充溢の中から可能性というものを掘り出して生きる存在だ。それはどれだけ可能性というやつが拡張されようが変わることのできない構図である。