tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

他者の享楽について

撮影スタッフは三人

   ――友部正人「ニューヨークの半熟卵」

 久々にブックオフビックカメラに寄って帰ったがなんだか死にたくなってきた。川端康成の「伊豆の踊子」と吉本隆明の「世界認識の方法」を買った。どちらも家を探せば見つかる筈の本だけど。新潮文庫の「伊豆の踊子」には「温泉宿」という怪作が載っていてそれが僕が今まで読んだ小説の中で最も好きなものだ。といっても僕はこの著者以外の小説を殆ど読んだことがないが。深夜に温泉を掃除する裸の白い獣が底で蠢いているあるひとつのしかしエロティックでもグロテスクでもない、それどころか痛ましいまでに純粋無垢な閉鎖世界。同著者の「みずうみ」や「雪国」もこの世界に比肩するもののおそらくない程の作品である。ラルキブデッリ演奏のブルックナー「弦楽五重奏&弦楽四重奏」のCDを買おうか迷ったけどやめておいた。代わりにDAPに入っているライプツィヒ弦楽四重奏団によるブルックナー弦楽五重奏を聴きながらこの記事を書くことにする。

 午後五時半に仕事が終わってから妙に憂鬱になり死ぬ方法を考えていたが昔検討していたヘリウムによるもののアイディアを思い出した。安上がりだし手軽だし痛みも少なそうだ。

 「発話は全て要求であり、要求は全て愛の要求である」というラカンの言葉。なんて分かりやすいんだろう。それは発話をそう見なす可能性の無際限性を示唆するものである。それはつまりその言葉は無際限に正しいということである。純粋に政治的な言葉、経済的な言葉、それらも発話である水準において愛の要求としての機能を持つ。言語は愛を語る手段として獲得されたからだ。それは否定しようと思っても出来ないものだ。

 怒りほど去勢不安を直接的に表現する感情はないし、同時に恥じらいほど愛の不安、つまり愛の撤退への不安を直接的に表現する感情もない。言い換えれば、これらの感情はいついかなる場合に生じた場合であってもつねにその出自を即座に同定できる。もちろんその経路を同定するためにはもう少し手間がかかるだろうが。もし同様の解釈をその他の感情へも当てはめることが可能であれば情動はいつでも無意識への覗き窓として単純に機能するのにと思う。実際情動の激しさというやつはそのあまりの露骨さへの防衛なのである。悲しみは受け入れたくない喜びを覆い隠すために生じるし、喜びはいつでも喜びの表現を大他者に表現するために生じるものだ。謂わば大他者への要求の最先端に喜びという表現はある。その内在性は大他者の内在性をそのまま意味している。あまりに単純だと思われるかもしれないが、心的構造の複雑さに比して情動というやつは余りに単純だ。それは原始生物のものだ。

 憂鬱というやつと怠惰というやつはほとんど同じだと考えてよい。それはそれで露骨な要求である。喜びという要求が「アンコール!アンコール!」という叫びとして要求するのに対し、憂鬱の要求は他者が彼の存在を欲望することである。憂鬱に落ち込んだ主体は他者の要求を受け入れない。他者の要求と感じられるものを跳ね除け、その先で愛を獲得することを要求している。それはあまりに始原的であり、それが成立したなら主体はもはやそれ以降の発達を遂げずにすんだところの要求だ。それなのにそれは常に回帰してくる、ひとつは眠りという身体的機能との関連付けにおいて。つまり睡眠不足がもたらす思考力の減退が始原的な要求を齎すとき、眠りはその要求の成立として比喩の水準ではあるが、ある程度機能することになる。

 欲望は享楽への欲望である。それはラカンの定義するところの手に入りうるがいつでも避けられるようなものとして想定された享楽を指してはいない。享楽とは他者の享楽のことだ。つまり主体は自らを他者とみなす水準で享楽を得ることの正当性を主張する、あるいは手に入るはずだと考えるのである。欲望とは享楽への欲望であり、他者の欲望の謎はあくまで享楽への欲望を享楽への要求へ移行させる上での課題として生じるものである。享楽は対象aによって表象されるが、主体が乳房に吸い付いたことでミルクが吸えたといった条件反射の水準でそれが対象aによって表象されるのではない。乳房が差し出され主体が吸い付くことによって生じていたはずの他者の享楽、その想定――もちろんそれは謎だが――においてそれは享楽を表象するのである。それは対象aとの関係が性的対象との関係へすり変わるところの理由でもあり、つまり性的関係の可能性は他者の享楽を他者のオーガズムに短絡しうる点にあり、それは他者の享楽と同様に他者のオーガズムが謎である点に基づいている。しかし性的関係はわざとらしく複雑化する。というのも謎である他者の享楽を他者のオーガズムに置き換えるということは、自らのオーガズムを持ち出し類推することによって他者の享楽の謎を明かそうという試みだからである。だからそれは成立と同時に他者の享楽を去勢する。主体は主体のオーガズムを堪能し、あるいは他者のオーガズムに向かいながら、他者の享楽はこんなものかと主張する。しかも滑稽なことに他者のオーガズムは未だに謎として残る。つまり不安を残している。なぜなら他者のオーガズムの謎はあくまで主体のオーガズムとの類推における確実性程度をしか得られていないからだ。それでもそれは元来あった謎に比べれば極めて具象的だ。自分の顔が他人からどのように見えるかという謎程度までには理解されている。そこにはまだ醜形恐怖を感じる余地があるというだけだ。

 こんなことを書くために僕は書き始めたのか?いや、しかしこれはもともと書こうとしていたことより重要なことだ。問題はこんなもの誰も読まないということで、希死観念の由来は別所、つまりそのために開設した「不可能性について」で探ることとし、一度まともな話題に戻してからこのブログを締めることにする。

 この記事は電車に乗りながらスマートフォンで書いてきたのだが、ちょうど今電車から降りコンビニに寄ってきたところだ。パイの実という菓子は妙に美味い。だが割高感があり自分で選んで買ったのは初めてかもしれない。こういう日に買うにはうってつけであった。コンビニ店員は大変だ。僕の憧れの職業である。最低限言葉が話せないと機能しないため、僕には務まらない職業である。僕はいつかコンビニ店員が務まるような人間になりたい。冗談ではないのである。

 それから家に帰って買おうか迷ったラルキブデッリの弦楽五重奏をYoutubeで聴いてみた。素晴らしい演奏だから買っても良かった。Scherzoの代替案として書かれたというIntermezzoが際立った名作だ。