tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19.12.21-2

幼児性というのは愛の名の欠如そのものだ。

勿論それは偏在する性向だが、同時にそれは考えうる限り最大の病気である。
幼児というものは愛を要求する点で病気だ。
ゆえに非幼児的な価値の創造が要請されている。

逆に言えば、要求そこまでなのである。要求する限り限界がすぐそこにあるのは分かりきったことだ。
欲望の迂遠ではない、昇華としての解決が求められている。

欲望の迂遠、僕はその言葉で「幼児性の肯定」が呼ぶ性愛という名前の、つまり非幼児性の否定、「大人」への攻撃性の体系、ないしは傾向、方向性を弾劾している。

世間でまかり通っている「愛」なるものが示すもの。幼児を「愛」すること。それは問題だ。幼児性は自ずから閉じるように出来ている。それは絶望の象徴として否定されねばならないからだ愛の課題は肯定すべきものを肯定せねばならないということだ。

幼児を「愛」することが、幼児性を愛することによって起こっているということ。それを愛するくらいなら嫌ったほうがどれだけましか。

それは憐れみに至って初めて安定する。畜生を畜生と呼び、否定感を通じて憐れみへ至ることの正当性は、ここでようやく確かめられる。確かに彼らは至らない。

僕らは幼児やそれに類するものを憐れんでも良いが、愛するわけにはいかない。

 

男性にとって性行為は権利だが女性にとっては義務だ。彼女らが女であるためには通過しなければならないと感じられている儀式。もちろん義務の喜びというものもある…。