肯定と良い対象。否定と悪い対象。
良い対象と悪い対象が分裂しているということは、
良い対象に対する否定感や、悪い対象に対する肯定感を否認しているということだ。
良い対象は、例えば自らと乖離しているという事実において、
すでに悪いものとしての性質をもっている。
その善性を保護しようとするとき、
良い対象が自分から切り離されているのは、
自分が良い対象にとっての悪い対象であるからである。
彼が良い対象と悪い対象との分裂を維持するとき、
良い対象を求めるものとしての自分は、
相対的に悪い対象へ位置づけられることを宿命づけられる。
ロマンティストの根源的な不安。
それは自らを良い対象と位置付けようとする不可能な試み。
良いものを肯定する裏で、悪いものを否定する、
憎悪や憤り、羨望や恐怖、嫌悪。そしてその跳ね返り。
良い対象とは何か、ようするに、それは何を齎してくれるものなのかという問いについて、
僕は暫時的に一つの答えを与える。それは具体的な行為を示唆する点で働くものだと。
性的対象が性的行為を示唆するように。もちろんこのとき性的対象は、
「示唆」そのものを行為の前提にする点で特異な訳だが。
幼児が孤独の状況に置かれるとき、彼の不安が取るべき行為の困惑にあるように、
言語的主体は常に取るべき行為における困惑にある。
そのとき他者という良い対象は、取るべき行為を示唆するものとして生じる。
そのとき行為の示唆は、まだ善性を意味しない。それ自体は対象性というものの性質だ。
そのとき善性というものは、行為に価値を付与する。
親と共にある幼児は、親への問いかけにおいて、行為の価値を生産することができる。
それが直接的に言われない時でも、幼児はこう言っている。「僕は何をすればいい?」
主体は悪い対象を忌避する。それとの関係を出来る限り避けようとする。
なぜそれは億劫がられ、避けられるか。