tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

2019.12.30-2 良い対象、悪い対象、統合

肯定と良い対象。否定と悪い対象。

良い対象と悪い対象が分裂しているということは、

良い対象に対する否定感や、悪い対象に対する肯定感を否認しているということだ。

 

良い対象は、例えば自らと乖離しているという事実において、

すでに悪いものとしての性質をもっている。

その善性を保護しようとするとき、

良い対象が自分から切り離されているのは、

自分が良い対象にとっての悪い対象であるからである。

 

彼が良い対象と悪い対象との分裂を維持するとき、

良い対象を求めるものとしての自分は、

相対的に悪い対象へ位置づけられることを宿命づけられる。

ロマンティストの根源的な不安。

それは自らを良い対象と位置付けようとする不可能な試み。

良いものを肯定する裏で、悪いものを否定する、

憎悪や憤り、羨望や恐怖、嫌悪。そしてその跳ね返り。

 

良い対象とは何か、ようするに、それは何を齎してくれるものなのかという問いについて、

僕は暫時的に一つの答えを与える。それは具体的な行為を示唆する点で働くものだと。

性的対象が性的行為を示唆するように。もちろんこのとき性的対象は、

「示唆」そのものを行為の前提にする点で特異な訳だが。

 

幼児が孤独の状況に置かれるとき、彼の不安が取るべき行為の困惑にあるように、

言語的主体は常に取るべき行為における困惑にある。

そのとき他者という良い対象は、取るべき行為を示唆するものとして生じる。

そのとき行為の示唆は、まだ善性を意味しない。それ自体は対象性というものの性質だ。

そのとき善性というものは、行為に価値を付与する。

親と共にある幼児は、親への問いかけにおいて、行為の価値を生産することができる。

それが直接的に言われない時でも、幼児はこう言っている。「僕は何をすればいい?」

 

主体は悪い対象を忌避する。それとの関係を出来る限り避けようとする。

なぜそれは億劫がられ、避けられるか。