tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

アチャン・チャー法話集第一巻を読んだ。

 今日は昼の12時に起きて、チャーハンを食べ、コーヒーを淹れたあと、二匹の猫の世話とアチャン・チャー法話集第一巻を読むことで一日を終えた。晩飯はフライドチキンと白飯、それから深夜にいちご大福と緑茶。いちご大福は爽やかな酸味があんこに良く、美味しかった。

 

 

 昨日は隣町の図書館まででかけて、八冊の本を借りた。さっそくミレールの「精神分析の迅速な治療効果」を読んだけれど、精神分析がどんな学問か、ラカンの高弟として名高いミレールですら理解していないのか、と思ってがっかりしてしまった。

 

 ミレールは、「終わりのある分析を、フロイトは分析であるとは考えていません。(p.52)」ということを知っているのに、「今日の症例は貴重です。……分析経験の終わりのある性質を明らかにしているからです。(p.52)」と、あたかも自分が新しい事実を発見したかのように言っている。

 フロイトが「この迅速な治療効果に『治癒への逃走』という名を与え(p.51)」たのは、人生において一時的なものとして現れる適応障害としての症状などを、フロイトはそもそも精神分析の対象と見なしていなかったからに他ならない。

 ミレールがこの本で「治療に成功した」と主張する諸症例は、カール・ロジャーズが片手に収まるだけの理論で成し遂げた治療より優れたものであるとも、効果的なものであるとも言えないのだ。

 フロイトが結果的に、そしてラカンが意識的に不可能性と向き合うために発展させた理論を、ミレールは、可能性の領野で堂々と振りかざし、しかもそれで鼻を高くしている。

 精神分析学は道楽的で、だからこそ魅力的で、そして無用なものであるとも言わざるをえない。なのにミレールはその実用性をなんとか認めようとして、『治癒』という幻をおいかけ続けているのだ。

 

 

 今日、アチャン・チャー法話集第一巻を読んで感銘を受けたのは、そこで語られる物事が、事実より大きくも小さくもされていない点にあった。

 一見あたりまえなことのように聞こえる発言も、ディレッタントが喜々として取り上げているような、半ば逆説的な発言も、これが真理だという説得力を伴って聞こえる。

 この本の著者、というより話者が主張する一番の内容は、「すべての悪行為から離れる」ということだった。

 

 仏教でいう徳とは、悪い行為をやめることです。悪い行為をやめれば、もう間違いはありません。(p.134)

 多くの人は『徳』を求めています。でも『悪い行為から離れること』を求めているようには見えません。彼らがしていることは、汚れた布を洗わないまま染めているようなものです。(p.126)

 ものごとのマイナス面とプラス面を明確に見るなら、それが危険なものだと人から教えてもらわなくても、自分でやめるでしょう。(p.114)」

 大切なのは欲から離れることの価値を理解することです。(p.277)

 明晰に理解しない限り、苦しみがつきまとうのです。(p.288)

 欲が苦しみの原因なのです。(p.295)

 これまで青年期に読んできた鈴木大拙ドイツ神秘主義の書いた幾つかの著作も、アチャン・チャーの言葉と比べると、観念的に、創作物として拵えられたものに過ぎなかった。