tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

ベートーヴェンのピアノソナタ

 ここ最近はやることがあまりになくて、音楽を聴いていた。モーツァルトのピアノ協奏曲でセル&カサドシュの良さを知り、今までブルックナーだけを聴いて敬遠していたセルの指揮で聴いた、ベートーヴェンブラームスがどれだけ凄いかに驚いた。ブルックナーを指揮したときには、発想だけがあってどこにも行き着かないような退屈な音楽に聞かせるのに、ベートーヴェンを指揮したときには、色彩豊かで、情感あふれる曲に聞かせるのはどうしたことだろうと思った。僕はこれまで、ベートーヴェン交響曲を、ここまで良い曲だと思ったことはなかった。

 その、見直しから、ベートーヴェンピアノソナタにももう一度手を出してみた。昔、グルダやケンプ、リヒテル、ギレリスなどで一通り聴いたベートーヴェンであったが、ルフェビュールで聴いたとき、今までに聴いていた彼らの演奏がどれだけダメだったかに気がついた。例えばグルダは、表面的に完璧な美しさを持っても、自分勝手で、ベートーヴェンの表現をしていない。ケンプだって、ケンプの表現をしていて、ベートーヴェンではない。グルダのバッハやケンプのシューベルトの素晴らしさを知っているが、それはけしてベートーヴェンの弾き方ではなかった。ルフェビュールのベートーヴェンは賛否両論あるらしいが、彼女の第三十一番を聴いたとき僕はベートーヴェンピアノソナタを初めて聴いた。そこにいるのはピアニストという役者で、ベートーヴェンのシナリオを忠実に振る舞っていた。けして「再現」しているのではない。彼女は見事に「上演」していた。このような「成り代わり」が、ベートーヴェンの演奏には必要なのだと分かった。あれだけ美しいピアノを弾けるグルダが、バレンボイムが、ダメなわけだ。

 モーツァルトシューベルトと違い、ベートーヴェンの演奏には、明らかに"衒い"、演技が必要だ。だが、それが恣意的な演技であってはいけない。ベートーヴェンを演技できる者が必要だ。その意味で、バックハウスの全集は確かにひとつの決定盤であり、ベンチマークである。この演奏を恣意的なゆらぎとみなす限り、くだらない演奏にしか聞こえないが、いかに自分が成り代わるか、ベートーヴェンではなく、ベートーヴェンがそう演じよと命じた役に成り代わるかという問いへ答えようとしたものだとみなすとき、はっきり是と言うことができる。