tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

社会、執着の論理

 至上のもの、至高のものといった妄想が広げる神秘的なイメージとは違い、原始仏教の示す真理への道は、世の中に無常・苦・無我を見るという非常にシンプルなものだ。

 逆に、社会は次のように言う。常、楽、我と。クフ王のピラミッドのように、積み上げていけばちゃんと積み上がっていく確かさのために励め、と言い、世界平和というイメージが示すように、苦を乗り越えた先にある楽のために働け、と言い、諸権利がそのまま示しているように、私のもの、あなたのものといった線引きを前提にする。

 社会という数十億の人口を支え養っている立派な構造は、しかし「確かだ」という誤った断定の危うさを孕んでいる。社会が、まるですべてのものを与えてくれているような見せかけの下で、しかし解決されないものとして渦巻く不満、それは"確かさへの欲望"という形で、社会とは違った別の拠りどころを求めることになる。

 そこには、社会が諸娯楽を無駄なものとみなそうとして、しかしできない理由が現れている。つまり、社会が主張する「確かさ」が真ならば、存在する必要がないものとして、娯楽は存在し、人々がそこから離れることができないという状況自体が、不安の存在を明らかに示しているからだ。

 真面目に働いていても、明日には事故や不手際で大量の借金を抱えているかもしれない。社会はけして無条件に信用できるものではないのに――そして実際に大勢の不幸を生んでもいるのに――黙って俺を信用しろと大きな顔をしている。そしてまた、それはけして現行の社会制度の不備によるものではない。私のもの、彼のものという線引きを決め、確かなものという信仰を続ける限り、依然として存在し続ける問題なのだ。