tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

アチャン・チャー法話集第二巻を読み直す。

 午前9時半頃から午後5時半までたっぷり8時間寝たのだが、眠さに負けて、そのまま午後8時まで追加で寝た。寝たといっても、起床しているのと半分半分くらいの睡眠で、常に夢を見ているような状態、頭の中でいろいろな思考が、事実として浮かび上がってきて、あるときは仮想の人物の伝記がWikipediaのページのように読み上げられたりして、文字通り何がなんだかわからなかった。

 ようやく起き出してからは、キャベツとトマトのサラダ、フライドチキン、フランクフルト、野菜スープ、えりんぎとブロッコリーのバター炒め、白飯を、寝起きの身体のままで食べた。

 

 

今日はアチャン・チャー法話集第二巻をだいたい半分ほどまで読んだ。

ダンマ(真理)とは、人が日々出会うさまざまな問題や困難を切り抜け、少しずつ減らし、なくすことができるよう、導いてくれるものです。(p.13)

 第二巻は、読み返してみると、第一巻の補足的な意味合いが強く、新たに書くこともそれほど多くない。単独の法話を寄せ集めたという編集の性質上、似たような話をくり返すことも多く、これはどうしようもないことだ。

 アチャン・チャーの実践についての方法論はあくまでシンプル、戒・定・慧に限定され、戒については昨日書いたとおり、定についてはあくまでサマタ瞑想の地道な実践の先にしか考えられていない。最近『流行り』のヴィパッサナー瞑想は、アチャン・チャーにとっては重視されていない。というよりも、ヴィパッサナー瞑想なるものが漠然と示す方法ではなく、よりラジカルな観察、考察を求めている。重要なのは観察、考察それ自体であり、決まりきった瞑想の形ではない。

 心の安らぎを得るために、必ずしも坐って瞑想する必要はありません。ただ生じているものを観察し、「これは何か?」と自分に問いかけ、その場で問題を解決するのです。(p.35)

 智慧によって穏やかな心地でいられるということと、瞑想によって一時的に得られるサマーディ(穏やかな心地)との区別も、この第二巻で初めて明確に書かれていることで、特に重要な記述の一つだと思われる。

 心のやすらぎには、「粗いやすらぎ」と「微細なやすらぎ」があります。サマーディから生じるやすらぎは「粗いやすらぎ」であり、これには厄介な面もあります。心がやすらぐと、心は楽を感じ、その楽にしがみついてしまうのです。……もうひとつのやすらぎは、智慧から生じる「微細なやすらぎ」です。……やすらぎとは、楽と苦を観察し、その両方を知る智慧のことです。この智慧は、楽と苦の真理を観察して、どちらにも執着しません。心は、楽も苦も超えています。この状態が、仏道修行の真のゴールなのです。(p.52)

 だいたいこれだけ分かっていれば、部分的に興味深い記述をいくつか取り出すことはできたとしても、アチャン・チャーによって語られたことについて、もうおおむね付け足すものはないと思う。

 「悩みや心配はすべて放っておきます」と自分に言い聞かせてください。瞑想中は、悩みも心配も必要ありません。……次に、出たり入ったりする呼吸に注意を向けてください。……普段どおり、自然に呼吸をするのです。このように呼吸に注意を向けていると、気づきと正知が生じ、吸う息・吐く息を知るようになるでしょう。……出入りする呼吸に注意をとどめることだけです。それ以外、何もすることはありません。……心が穏やかで静寂になるまで――、つまり心と呼吸がひとつになるまで――、このように実践してください。ひとつになるとは、心が呼吸に完全に集中し、呼吸から離れないという意味です。……静止し、穏やかになったら、智慧が現れます。これが始まりであり、実践の基盤になるのです。私たちはどこにいようと、日々、心穏やかでいることを実践すべきです。……気づきを保ち、心を絶えず観察しなければなりません。(p.18-21)

 とりあえず、次図書館に行くことになるだろう火曜日まであと三日、二巻の続きと三巻を引き続き読んでいきたい。