tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

「これが人間か」を読んだ。

 昨日は正午ごろまで「これが人間か」を読みながら寝た。目が覚めたのは午後八時。朝起きてすぐ晩飯で、辛子明太子一切れ、鯖、白飯、おでんのゆで卵を食べた。あまり多く食べなかったのに、お腹はいっぱいになった。

 それから、過去に書いた自分の詩を整理していた。強い執着を感じ、それから離れがたくなって、そのことが僕を苦しめた。

 創作はどこまでも人を苦しめる。それが紛うことなく、"コミュニケーションの試み"であり、"コミュニケーションの試み"は最後には必ず不成立に終わるという普遍の事実によって。

 目を覚ましたばかりなのに、その後しばらく眠気がやまないので、眠気とは嫌気のことなのだと分かった。午後十一時前に寝て、午前四時頃ようやく起きた。

 

 

 起きてから、仰向けの状態で『サマーディ』について考えていた。『サマーディ』とは、昨日読んだアチャン・チャーの本の中で語られていた、瞑想によって心が安らかになった状態のことだ。日常の些事に悩まされることもなければ、娯楽に悩まされることもなく、じっとしている、その状態が“至福のひととき”であることに疑いはないように思った。

 その後起き出して、残していたおでんの残りを食べた。それから「これが人間か」を午前九時半までかけて最後まで読み終えた。

 昼飯には袋麺を茹で納豆と絡めて食べた。眠気がひどい。

 

 

 「これが人間か」はアウシュビッツ強制収容所における苛烈な体験の、苛烈さを伝えるものではなかった。というのも、零下20度を下回る冬の中を、裸同然で働かされることの苛烈さを想像することはできなかったから。どのような体験も、一冊の本にすれば、ただのドラマと化してしまう。

 この本の巻末に書かれた「『人間』の根本的自由と平等を否認し始める国があったら、その国は強制収容所体制に向かう」というあまりに単純な記述が、しかし強い説得力を持っていた。

 作中で描写されていた"一切れのパン"の少なさは、想像を絶するものだった。(このページの下部に写真があるhttps://wagner.edu/holocaust-center/ruchama-rachel-rothstein-rachel-roth/)

 いまさらになってアウシュビッツの実態を知り、新事実のように書いている自分が、少し情けなくなってしまう。

 この、それほど長くない本を読み終えるのに十時間近くかかった。今日のこのどっと疲れたような身体感覚は、この本によるものなのか分からない。僕の人生は、高校を中退してからの十数年間ずっと、おおむね、正体不明の苦しみ、苦悩とともにある。

 それはときどき、身体的な苦しみ、痛み、倦怠感の顔を持って訪れる。この世に溢れた様々な娯楽が、僕を苦しみから解放してくれるものでなければ、鎮痛剤のように、その経験を和らげてくれるものですらないことを、原始仏教にまつわるいくつかの本が、はっきりと言い切ってくれたことは良かった。それは、経験のなかですでに薄々と感じられてきたのに、どこかに救いはあるという歪んだ信念のもとに、あえて無視されてきたことだったから。