tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

アチャン・チャー法話集第一巻を読み直す。

 結局今日も午後8時まで、およそ11時間寝ていた。アチャン・チャーの教えについて考えていると、頭が混乱するせいで、眠りに逃避している。実践に伴う思考の混乱。思考して生まれたものは大抵間違っている。観察して生まれたものだけが正しい。

 祈りのように、何か真理めいた言葉を唱えたところで、本当にそうはならない。そうであってほしいと祈ることには、何の価値もない。ということが分かるようになってきた。

 観察し、体得するほかに、ない。本から学ぶことは、どう行為するか、それだけ。自分で実践することも、また、観察と行為、それしかない。それ以外のことは、全て迷いなのだ。

 

 

 起きて晩飯に鶏肉のガーリックパン粉焼き、パプリカ、エビやトマトのアヒージョ、じゃがいも、白飯を食べた。じゃがいもは皮ごとで、ソラニンのえぐみを感じた。ずっと空腹のなかに、突然大量の食物をいれたため、腹具合がおかしくなった。規則正しい生活をすることの大切さを思い知った。

 それからアチャン・チャーの第一巻を読み、八正道など、よく知らないことについて調べながら読み進めた。その過程で、プッタタートやクリシュナムルティエックハルト・トールの著作について知り、その一部を図書館で予約した。

 プッタタートについては、かなりの量の著作を邦訳し、無料公開しているホームページが存在している。(ターン・プッタタート の法施図書室

 クリシュナムルティエックハルト・トールは共に、『あの』アメリカ、要するに、『全てを台無しにする』アメリカで持て囃されていた思想家だから、多く期待することはできないが、先入観で裁かず、実際に読んでみて、その思想をはかろうと思っている。

 あれも読もう、これも読もうと予約かごに本を放り込んでいたら、合計16冊になった。そのうち8冊は軽い読み物だが、残りの8冊は重い読み物だ。重い読み物は一日一冊を目安に読んでいき、間に軽い読み物を読んで行くことになる。

 

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 午前三時頃、アチャン・チャー法話集第一巻を読み終え、それからプリーモ・レーヴィの「これが人間か」を読んでいた。

 午前六時半頃、辛ラーメンを茹でて食べた。普段は七割ほどしかいれない粉スープを全部入れてみるととても辛くて、途中から痛覚が麻痺して辛さを感じなくなった。その後も「これが人間か」を読み進め、三分の一ほどまで読み進めた。そのまま午前九時半頃寝た。

 

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 実践してみようとすると、何をすべきで、何をしないべきか、ということについて、多くの疑念や迷いが生じることに気がつく。どうあるべきで、どうあらないべきかという問題には、先入観によるイメージ、思い込みが大きく関わってくる。戒律があまりに厳しいと感じられるときでさえ、「これが修行だ」というような先入観によるイメージは、それ以上に、しかも不必要に、人を縛り付けることがままある。

 読んだものはすべて心から生じる。心を訓練しなければ、注意力も明晰さも育たず、常に疑念を抱くことになる。ブッダの教えを心のなかに入れるようにしなさい。心を落ち着かせなさい。……これは悪い行為かどうかと迷い、はっきりわからなければ、何もしないことだ。(p.179-180)

  こうしてはいけない、ああしてはいけないということは、けして、自ずから分かっているものではないということに、注意しなければいけない。でなければ、自分の中に確かにある基準だと思いこんでいるものの不確かさに、振り回され、何がなんだかわからないまま、翻弄されてしまうからだ。

 そういうことが分かるためにも、実践することは、勉強するだけではわからない、多くのことについて智慧を与えてくれる。そしてまた本を読み始めると、それまでには気づかなかったことに気づくことができる。これが、荷車には両輪があり、そのどちらが欠けても前に進むことはできない、ということなのだと思った。

 心をどう制御するかを知るまでは厄介なものです。冷静でいなければなりません。(p.186) 

 アチャン・チャーによって語られる内容は、種々の細かい戒律の内容というよりは、一貫して、「観察」についてだ。

 心と感覚をよく知ることは、とても重要なことです。心と感覚がどのように生じて消えるのか、どのように来ては過ぎ去っていくのかを知るようにしてください。徹底的に理解するのです。(p.293)

 感覚が一時的なものであり、苦しみであり、実体としての我がないということが理解できたら、感覚を追いつづけるのは愚かだということがわかるでしょう。……感覚をあるがままに観察し、無常を見るなら、感覚が一見追いつづける価値のあるもののように見えたとしても、実は価値のないことがわかります。(p.293)

 私たちがいま座っているこのお寺の本堂はかなり大きいですが、真のよりどころになりません。……このお寺は自分たちのものだと思っているかもしれません。でも、そうではありません。……ここは単なる一時的な住まいであり、いつか立ち去らなければなりません。人はこの一時的な住まいを、真のよりどころだと勘違いしているのです。そこで、ブッダは私たちに「自分のよりどころを見つけてください」とおっしゃいました。これは「自分の心を観察してください」という意味です。(p.227-228)