午前3時に起きた。それから「ダンマパダ 全詩解説」を読み始めた。読んでいると、この詩集への少しの失望に伴うように疲労感が生じ、一度「霧のなかのゴリラ」ダイアン・フォッシーの第一章だけを箸休めに読んで、それからまたダンマパダを読み始めた。
正午ごろ、昼飯にかき揚げの天丼と、トースト一枚を食べた。
「ダンマパダ 全詩解説」には、「ダンマパダ(法句)」の現代語訳、五世紀のブッダゴーサによる「法句註」、それから道元禅師の「正法眼蔵随聞記」の部分的な引用が含まれている。
「正法眼蔵随聞記」は興味深いが、ブッダゴーサの「法句註」は読むに耐えない代物だ。現実離れした馬鹿げたエピソード集で、訳者が「これによって各偈の意味とその背景を充分に知ることができる」と書いているのには目を疑う。原始仏教が時代を追うにつれ堕落していった証拠そのもののような酷いものだ。
残念なことには、本命である法句自体も概ね世俗的で、水で薄めたインクで書かれたような、部分的にしか読むに値しないようなものであり、最古の経典と言えど、ブッダの教えをそのまま著した経典でないことは明らかなように思われる。
たまたま昨日読んだばかりだから持ち出すが、エックハルト・トールのような不安に基づく――主に願望に基づいた――理論武装は、読むものを惑わせ、疑へと導く。あれこれの望みが語られ、思われ、魅力的なもの、素晴らしいものとして人を惹きつける。しかし望みは人をただ苦しめる。だから、望まないことが求められる。そのことがどれだけ重要か、そしてどれだけ、忘れられやすいか。人はすぐに何かを望む。その望みが苦しみの元凶であるのに。
愛するものと会うなかれ 愛さぬものとも会うなかれ
愛するものを見ぬは苦なり 愛さぬものを見るも苦なり
それゆえ愛するものを作るな 愛するものとの別れはつらい
愛するものも愛さぬものも いない者らに束縛はない
(法句二一〇、二一一 訳・片山一良)
*
午後6時から午後8時まで仮眠をとり、晩飯にエビフライ二本、キャベツの千切り、ひじきの煮物、白飯、味噌汁を食べた。
一日がかりでダンマパダを読み終え、午後11時頃、寝た。