tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

いざ目をかの年へし水沫にそゝげ

 午前五時頃起き出した。昨日より強めの、しかしまだ穏やかな雨が降っていて、六時間しか眠らなかったわりに、意識が明瞭で、良い目覚めだった。不意にダンテの「神曲」の有名な言葉「この門をくぐる者は一切の希望を捨てよ」が頭の中に浮かんだ。詩を書こうかと思ったが、書き始めて、やめた。

 猫の世話をし、昨日晩飯を多めに食べたせいであまり腹は減っていなかったがトーストを焼いて食べ、その後、ダンテの神曲を読もうと思い、最初の数ページだけを読んだ。「誇り高きイーリオンの都が――」というくだりで、ギリシャ神話について知らないことを思い、いろいろ調べていくほうへ道を外れた。

 そのうち階下で猫が人の不在を知らせにゃあにゃあ騒ぎだしたので、昨日読み始めたフォッシーの「霧の中のゴリラ」を携え、午前8時半まで猫を膝に乗せたまま読書をしていた。この本は軽いエッセイ集ではなく13年間の記録を載せた半専門的な本で、その充実に驚くが、綿密な地理的説明は読むのが大変な割にほとんど頭に入ってこなかった。

 その後シャワーを浴び、早々に切り上げられた「神曲」の続きを読みはじめた。猫が布団に吐いたりしていろいろあったが、正午に納豆、卵黄、醤油、みりん、ごま油、うまみ調味料を白飯にかけたものを食べ、400mlほど緑茶を飲んだ。

 アチャン・チャーの著作を知り、この世の中は不確実であることや、思い通りにならないこと、(心を)観察することなどを知ってから、たったそれだけで世界が変わったようになった。エックハルト・トールが、ただ自らの思考を観察しただけで、苦しみを抜け出し、大喜びで『さとった』と言い始めてしまったのも理解できるくらい、子供の頃から抱えていたADHD的性格――高校をやめ、大学をやめ、さらには専門学校をやめさせたあの性格――がすっと収まって驚いている。

 自分を観察すると、自分の心を落ち込ませているような見解や行動に気づき、それを誤りと認め正すことができるようになった。

 昼飯後も、ギリシャ神話などについて調べながら、「神曲」を読み始めた。少し調べたところ、ギュスターヴ・ドレによる神曲の挿絵が、インターネット・アーカイブ無料公開されている

 神曲を読みながら寄り道をくり返すうち、エピクテートスという思想家の断片的な文章に惹きつけられた。「私は神とともに選び、ともに欲し、ともに意志する」次回図書館へ行くとき(おおよそ10日後)には、必ずエピクテートスの著作(それから、最初だけ読んで放棄していたマルクス・アウレーリウスの「自省録」)を借りようと思った。

 午後8時半、晩飯に牛ステーキ4切れ、まいたけとブロッコリーのバター炒め、エビフライ1本の半分、トマトスープ、黒豆入りミネストローネ、ミニトマトとセロリとレタスとオニオンのサラダ、それから白飯を食べて、食後にクッキー2枚も加えて食べたら、お腹いっぱいになってしまった。

 その後も「神曲」を読み進め、神曲の地獄篇をちょうど半分読み終わったころ、深夜0時が迫っていた。丸一日で神曲の地獄篇半分では、亀の歩みだ。今日はある種休息の一日、そして間違いなく、脱線の一日だった。明日からまた借りている本を一冊ずつ読んでいこうと思って、そして、寝た。