tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

uselessということ。

 今朝二時半ごろ目を覚まし、もう一度寝なおしたら、卑猥な夢を見て目が覚めた。時計をみると、午前四時だった。

 起きてから、これまでに読んだことについて大まかにまとめてみた。午前6時ごろ猫の世話をし、午前7時頃六枚切りの食パンを一枚食べた。

 英語学習についてぼんやりと考えている。なにのために?というわけでもないが。僕は生まれてから、人のためになるような何かをしたことが一度もない。

 それからアチャン・チャーの「手放す生き方」を読み始めた。

 痴は私たちに、良いものを悪く、悪いものを欲、醜いものを美しく、価値のないものを価値あるように見せます。(アチャン・チャー「手放す生き方」p.46)

  自分が価値あるものだと思いこんでいるものは、本来価値のないものだ。いずれ脱価値されるすべてのもの、そこに価値を見ている愚かさがここにある。

 

 

 朝起きてから少し経ったとき、上にあるように、「僕は生まれてから、人のためになるような何かをしたことが一度もない。」と書いた。そのことについて、日本人比丘のアチャン・ニャーナラトーが面白いことを言っていた。ラジオの書き起こし(心の軌跡―イギリスの日本人比丘に聞く)だったので、直接の引用ではなく、少々整理して書き出す。

 ある日街に立っていたら初老の男性が自転車を押しながら来て「お前は何やっているんだ」と聞かれたから、「托鉢です」と答えた。すると彼は、「お前、仕事しないのか」と言う。もう一言二言言ったあと、「useless」と僕に言って去って行きました。「useless」ですから「役に立たない」。普通の意味で仕事をしていない、生産活動をしていない。それでこうやって食事を乞うているわけですよね。だからこれは「お前みたいなのは役立たずだ」と、そういう意味で「useless」と言ったのです。

(略)
 裕福な人でも何か不安、落ち着かない、拠り所がないという感じがよくあります。「自信」というのは、「自らを信ずる」ということです。しかしその自信というのを、「あなたはこういうものを持っているから支援になりますよ」「あなたはこういうことができるから、社会に貢献しているのです」という世俗的なレベルで考えています。その価値観によって人間は本当の意味で幸せになっているかどうか分からない。むしろ不安であったり、自信を失っている。自信を失うわけにいかないから一生懸命それをカバーして、自信を作りにいくが、今言ったような、意味がある、価値があるというところで頑張っているから、しんどいです。諸行無常――すべてのものが変化する。そういうものに自分の価値を定めると、それが変化した時にuselessになってしまう。

 この指摘は真理に照らせば、当然のことなのだけど、しかしうっかり見落としてしまうようなもので、まさに智慧だと思った。自分の執着を取り巻く問題の幾つかも、世俗的な意味での自信のなさに由来していたことに気がついた。

 単純な話だが、世俗の論理では、お互いが世話をし合う、ということが求められている。宗教の論理では、自分自身の世話をする、ということが求められている。ということ、ただそれだけなのだ。

 仏教は、人にあれこれ言う人に対して、お前自身のことをしろ、と咎める。自分自身のこともちゃんとできていない人が、人に何かを言っても無駄だと言うのだ。

 

 

 瞑想だけでなく、日常生活の中で実践しようと思い、気づいていよう、観察しようとしていても、何かに惹かれると、それに夢中になってしまい、ガーッとなって、観察もくそもなくなるという経験をいくつかした。その中で、次の言葉に突き当たった。

 正しい努力とは、常に気づき、目覚めているための努力であり、怠惰や煩悩に打ち勝つための努力です。そしてそれは、日常生活を瞑想の場とするための努力でもあります。( アチャン・チャー「手放す生き方」p.82)

 実際のところ、戒の修行をおこなうには、慧が伴う必要があります。……戒(何をしてはいけないか)を完備するには、戒の含意を完全に理解するための、慧がなくてはなりません。……もし、どのような自身の行為や言動が害を引き起こすか観察するのなら、あなたは原因と結果の双方を理解し、コントロールし、浄化し始めることになります。(p.88)

あなたが不適切な行為をやめ、おこないを正したとき、心は自然と安定し、揺るぎなく集中したものとなります。こうして生まれた定は、行動や言動における動揺や疑念を制限する効果があります。心が整っていれば、視覚や聴覚に刺激を受けても、それを明晰に観察することができます。心をさまよわせないことによって、あなたは真理に従った、すべての経験の真の姿を理解することでしょう。(p.88)

  結局のところ、今日は丸一日かけて読んでいたのに、あれやこれやにかかずらってしまい、100ページしか読めなかった。心は乱れていなかったが、集中力はなかったかもしれない。午後九時半ごろ寝た。