tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

神も阿羅漢もない。

 たっぷり9時間寝てしまい、午前6時半にようやく起きた。猫の世話をすると午前7時。絵を書いていたら8時、それから辞書を眺めていたら9時になっていた。午前10時にお腹が減ってからトーストを食べた。少しマーガリンを塗りすぎる癖がある。今日もいろいろ調べながら、「手放す生き方」を最後まで読むつもり。

 

 

 実存の問題を話しているはずなのに、すぐに神がどうの、阿羅漢がどうのという話になってしまうのはどうしたことか。神も阿羅漢もないのだ。そのことについて話すことは、願望について話すことに他ならない。願望とは何か?捨てなければならないもの。真の理の、正反対にあるものだ。神はこうだ、阿羅漢はこうだと語る人を信用しないように。それはただ彼らの願望を語っているに過ぎない。そこにはどのような正しさもありえない。

 キリストを信じる人はキリスト教という名前に依り、ブッダを信じるものは仏教という名前に依る。しかしながら、キリストやブッダが正しかったとしても、キリスト教や仏教が正しいとは限らない。キリスト教や仏教は、キリストやブッダが語ったことを元にしていたとしても、それを書き、編纂した者は、キリスト本人でも、ブッダ本人でもない。多くの人が信じているのはキリストでもブッダでもなく、キリスト教や仏教だ。そこには既に誤りがある。

 更に言えば、キリストは、「私を信じなさい」とは言っていない。ただ、「神を信じろ」と言い、また、神についてはそれ以上語っていない。同時に、ブッダは、「己を己の寄る辺にせよ」と言っている。キリスト教や仏教に依ることはもとより、キリストやブッダに依ることもまた、誤りなのだ。ナザレのイエスゴータマ・シッダールタを知り、彼らから学ぶことはあるにしろ、彼らを神格化しない、ということだ。

 「わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。(マタイ 7:21)」驚いたことに、これだけはっきり言っていても、聖職者は無視することができる。読みというものはその程度のものだ。都合の悪いところは読み飛ばすものだ。結局、その人次第なのだ。

 神という概念はなぜ生まれたか?どのような願望において生まれたか。神とは、「聴くもの」だ。「聴くもの」は、言葉を発する時に、それを聴くものがいないという状況に耐えられないことから生まれた。

 フスはひざまずいて、敵対する全ての人を許すように、低い声で神に祈った。(

ヤン・フス - Wikipedia)

  願望があるところには、妄想が生まれる。妄想があるところには、幻想が生まれる。問題は、自分から生まれた妄想は幻想につながらないが、他人から生まれた妄想は幻想につながりうるということだ。

 多くの宗教が神に依るように、仏教も誤ってブッダや師に依ることが多い。その水準ではどの宗教も同一だ。

  依るものがないから、依るものを欲し、あるいは社会に、あるいは人に、あるいは神に依ろうとする。それは僕自身だって部分的にそうだ。だが経済的に他者に依存してしまうことと、精神的に依存してしまうこととをごちゃまぜにしてごまかしてはいけない。

 それなら人は、何に依ればいいのだろうか?ブッダの言ったとおり、自分自身の心に依るのだ。しかしそれでは足りない。整った心、サマーディに依るのである。

 サマタ(止)、サマーディ(定)、サティ(気づき、)、パンナ(慧)の概念で、原始仏教が齎してくれた根幹の思想は足りる。四聖諦などといった発想は、他ならぬパンナが齎した成果にほかならないからだ。サマタがサマーディを生み、サマーディがサティを生む。サティがパンナを生み、サマーディをより堅固なものにする。そのことさえわかっていれば、他に必要なことはない。