tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

すこしおかしな週

 沢山の執着が心のなかにあり、それを取り払うことへの粘り強い抵抗がある。

 理解するということは、おやつにクッキーを食べようが食べなかろうが大差ないのと同じように、それがこの先、一生のうちに、存在しようがなかろうが、大した差はないと理解するということである。

 ビールを一生飲まない、という宣言を思うように、何かを一生禁止する、という言葉をきくと、仰天し、ひどい束縛を得たかのように感じられるかもしれない。でも、ビールがなくても人生というものは大差ないのだ。そのように、執着を「大した差はない」によって断ち切っていくこと、捨てることが束縛なのではなく、捨てないことが束縛なのだと理解すること。執着の対象は、人生を独り占めしようとする。

 こう言っては本末転倒に思われるかもしれないが、人は迷うものであり、彷徨うものであり、心は揺れ動くものだ。だから、迷ったり彷徨ったり、揺れ動いたりしても、そのことを苦しく感じないということが大切だ。迷いをそのまま苦しみと感じるなら、生きていることは苦しみに他ならなくなる。

 迷いを見つめて、そしてその原因である何らかの執着に気が付き、それを断ち切っていくならば、迷うこと自体は避けられないこととしても、彷徨う範囲を狭めることはできる。

 

 

 最近、英雄というものについて考えている。ギリシャローマ神話に出てくる神は、神というより英雄だ。アメリカのスポーツを見ていてよく思うのは、体格から何から、常人とは隔たった域にある存在にあることだ。まさに選ばれし者のステージだ。それはそこらへんにいそうな青年たちがトッププレーヤーとして君臨するサッカーが今ひとつ流行らない原因でもあると思う。

 人間には英雄的なものへのあこがれがあり、それが西洋史的にではあるが、物語の祖となった。最近はルッキズムがどうだのと、登場人物が英雄的であること自体を否定する趣が生じ始めている。まだマイナーな潮流ではあるが、これがどこまで発展するか興味がある。

 英雄的なものへの願望は、それが願望である限り苦しみの原因となるものだが、それを自分自身がそうなりうるという可能性から引き離して、それを純粋に見るならば、それがどれだけ素晴らしいものであるか。英雄たちは確かに、願望抜きで成就する。

 

 

 今朝は午前六時に一度起きて猫の世話をしたあと、すぐにまた寝て、ちょうど正午ごろ起きた。午後三時半まで、調べ物などしながら、この人生をどう運ぼうかと脳内で格闘していた。まだ多くの執着が心のなかにある。午後八時まで、反省したり、何かを書いたりしていた。晩飯には白飯、チーズ入りちくわ、たこ入りちくわ、ナスと肉の甘辛炒め、豆腐、食後に蜂蜜をひとさじ食べた。

 「文語文入門」を今日も牛歩の歩みで読んでいる。心のなかの迷いと重なり、この薄い本をだらだらと、三日もかけて読んでいるが、さすがに今日で一区切りつけて、次の本を読もうと思う。

 ブログを読んでもらえば分かると思うが、この三日か四日、少し生活がおかしかった。今日深く反省した。欲望に振り回されないように。