tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

日常雑記

 今朝は午前五時にいちどおき、猫の世話をしてからまた寝、午前十時にもう一度起きた。一時間半のあいだパソコンのファイルを整理し、昼飯に牛乳、トースト、バナナを食べた。今日食べたバナナにはりんごのような酸味があってとても美味だった。

  午後からは昨日決めたとおり、「文語文入門」を再読。勉強していると、理論より具体例のほうがずっと大事だと感じざるを得ない。なぜ文語文を読みたいと思ったかと言うと、青空文庫で読めるものの多くが文語文で書かれていて、日本語なのにうまく読めないことにショックを受けたこと、ダンテの神曲旧約聖書等文語文でこそ読みたいものが幾つかあることの二つによる。

  やりたいことがあるのだけれど、うまくいかない。今日の夕方以降はずっとそのことに取り組んでいたけれど、うまくいかないまま、気づけば午前一時半だった。

 

 

 今日の記事は思いついたことをただ書き並べるもの・・・。

 

 

 天動説と地動説の発想を比較したgif画像が面白い。人間にとって、日常生活のいろいろな人や物の動きが不規則に見える理由を如実に物語っている。地動説が示すスマートな軌道は、因果律が示す、恣意的に変えることができない流れを表しているかのようだ。

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 苦しみをなくすということは、願望を捨てるということだ。

 願望を捨てるということは、願望するほど、苦しみが増えることを理解し、それから離れるということだ。

 ロマンティストとは願望するもののことであり、最も大きい苦しみを抱えるものたちでもある。

 リアリストを超えたリアリストになること。リアリストたちがみな短気なのは、「現実的に」生活を思いどおりにしようとしているからだ。そうではなく、「写実的に」生きることを知ることだ。つまりあるがままに、世界を映すこと――

 わたしは自分のからっぽに幾つか意味があるような気がした。お祭りが終わったあとのさびしさみたいにからっぽな感じもあって、でもその時間を記憶しているわたしは充ちているような気もするから、それはからっぽのほんとうの意味じゃなかった。というよりも、からっぽは充ちているものなんじゃないかという気がしていた。生きているということが身体のなかにあるってことだと感じた。それでもわたしはわたしにとってからっぽだった。それは虚しいとか遠いとか悲しいということじゃなくて、昼に部屋が明るいとか宵に部屋が薄暗いとかいうことみたいにからっぽだった。カメラのレンズをとおすと世界がさかさまになるみたいだと思った。(自作詩・Parousiaより)

 

 

 これまでに僕が多大な影響を受けたと感じる三人の人がいる。

 一人は吉本隆明。何も分からなかった高校時代から大学時代にかけて読んでいた。政治のことについてはさっぱりだったが、『マチウ書試論』や『最後の親鸞』といった、宗教にまつわる本については、その実存論的な切り方が素晴らしかった。偉大な思想家というよりも、偉大な語り手だった。

 一人は八木重吉。詩を書き始めた大学生のころ、ちくま文庫から出ている『八木重吉全詩集<一>、<二>』を持ち歩き、ぼろぼろになるまで何度も読んだ。これだけ単純なことばで、人の心を打つことができるということに非常な感激をうけた。複雑な詩には、一向に興味が持てなかった。吉本隆明の、取り払える幻想は取り払えるべきだとした態度に沿えば、まやかすためだけに複雑化する特殊な記述法や諸間接表現に興味が持てないのは当然のことだった。書き始めた当時は八木重吉の真似をすることがすなわち詩作だった。

  無題

なにをしてすごしてきたか
一日ふりかえってみたけれど
あまりに今日はぼんやりしていて
想えば僕は 僕の暮らしは
0歳のころから今日までずっと
ぼんやりしていたんじゃないか

  植物

おちこんで 一日眠く
一日眠く 過ごしていると
僕は植物、 だろうか 
部屋はほの黄色く
夕方にさしかかるころ
僕の心もぼうっと点滅し
動きのように反応している

  二十一歳

そろそろ人生の半分を過ごしたと思う
もう思い出せない幼少期の
幼すぎる思い出を思えば
  (数十万の金は
   僕のこころを憂鬱にさせるが
   数千円の 金は
   僕のこころを躍らせる)

 三年間ほどずっと、こういった短詩を書き続けていたものだった。

 

 最後の一人はつい最近知ったアチャン・チャーで、いままで得たもの全てをひっくり返される衝撃を受けた。原始仏教を噛み砕けば、これほど実践的なものになるのかと思った。アチャン・チャーは、同じタイの僧侶で名高いターン・プッタタートなど、到底及びもしない素晴らしい思想家であると思う。無駄な言葉で大切な真理を隠してしまわないことがどれだけ大切かは、パーリ仏典そのものが、悪い意味でよく表していることだ。

 

 他にも歌手の友部正人だったり、思想家ではフロイトラカン、文学者では川端康成つげ義春、作曲家のモーツァルトシューベルトブルックナー、映画監督ではビクトル・エリセセミフ・カプランオール、高畑勲といった大好きな作家も複数いるが、上にあげた三人ほど人生における決定的な影響は受けていない。