tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

19.12.11

 今日は午後1時に起きて久しぶりに風呂に入った。風呂に入らないということと鬱とは極めて高い関連性があると思う。不潔さの意識自体が自己嫌悪を呼び込む素地になっていて、それが僕を憂鬱にさせる。風呂と散歩は病的でない水準の抑うつには有効だ。でもそう知っていてもそうする気にならないのが抑うつの厄介なところなのだから。それからコーヒーを飲みながらこのブログを書いていた。iPadは良いのだが、キーボードがないとやっぱり不便だと思い始めた。10000円。欲しいが金がない。今日は午後五時半ごろから出かける予定がある。それまではダラダラバイトを探そうと思う。昨日バイトの面接をすっぽかしての今日ではあるものの、風呂に入って少し落ち着いた。出かけて、午後十時半に帰ってきた。電車の中でクラインの「羨望と感謝」を読んだが、間違いなく名著だ。あまりに分かりやすい。分かりやすすぎて下らない部分も多いが。  ここからは昨日の考え事の続き。僕を縛り付けるもの、それは僕自身が他者へ向ける敵意、嫌悪だ。それは羨望とは違うが、クラインが分裂ー妄想態勢と呼んだ態勢の中で悪と分別されるもの、それが僕の中で、つまり僕の悪を見出すときに、恥じらいや罪悪感、希死観念が生じてくる。僕を縛り付けているもの。このままではいけないという焦燥、それは僕が僕において善であろうとする焦燥そのものだ。自分が愛するものとして自分があろうとすること。理想自我。それは厳密には、他者が自分をどう見るかということとはズレている。一人でいるときにも恥は想起される。そのズレが問題になっている。知の想定とは、視座の想定でもある。善し悪しはどの基準で測られるのか。転移。自らが善と見做すものに知を想定する。あるいは知を想定したものを善と見做す。もちろんそこには陰性転移もある。ここでいう転移は、統合的な対象であるはずの他者が部分的な対象の性質である善悪を負うということである。つまりまなざし、糞尿、乳房といった部分対象が残滓として善の、つまり分裂的な、限定的な、判断を遺す一次的な愚かさとは違った「二次的な愚かさ」が、そこにあるということだ。分かりやすく言うならば、それら他者は良い側面も悪い側面も持っているはずなのに、それが総合的に善か悪かという短絡的な判断が呼び込まれ、転移においてはその判断により大きく依ることになるという状態がそこに生じているということだ。分裂的な良し悪しの判断、部分対象的な、つまり善でもあり悪でもあるという判断の水準にあれない対象性、そのときそもそも善悪はどのように決定されているか。ある水準までは欲求の秩序によって、それ以降は推測された他者の秩序によって。他者、つまり総合対象が善の要素をどれだけ持っているか、悪の要素をどれだけ持っているか。そして総合対象が統合対象たりえないとき、善か悪かに極化し、恋や転移、でなければ嫌悪が生じることになる。このとき同時に、自分自身における善と悪の問題が、つまり対象化された自我、自己の問題が生じる。恥、罪悪感、あるいは自惚れ、全能感。それが自分の問題に移るときの、善くなければいけないという強迫観念。また、善であることと善であるものと関係することとはイコールである。だからこそ生じうる堕落。さらに言えば、善であろうとすることは殆どの場合挫折する。だからこそ関係が求められる。性行為。攻撃、同時に受け入れられること。最大限の許可。サディズム