tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

マゾヒズムの論理

 性的領域は能力主義の先端だということを以前の記事「欲望はどれほど人間にとって本質的か」の中で副次的に書いた。だが性的領域の本質が「能力をめぐる闘争」であるとはどういうことだろう、簡潔かつ具体的に書いておく。

 まず性的領野における「能力」は一つではないという問題がある。特に同性が持つ能力と異性が持つ能力は異なっているように見える。これは厳密には「可能性としての能力」「不可能性としての能力」と言い換えることができる。性的関係を能力をめぐる闘争とみる視点では、これらの能力の区別が難しいということが言える。一方「奪うこと奪われること」を主軸に置く場合、「奪う者」と「奪われるモノ」が「自分」と「他者」という曖昧な区分けのより直接的な表現になる。実際には、「自分」と「他者」という区分と「奪う者」と「奪われるモノ」の区分は別々に存在して、マゾヒズムにおいて「自分」が「奪われるモノ」に立つ水準、つまり「他者」を「奪う者」と見做す水準が考えられる。可能性としての能力において不可能性としての能力をいわば征服しようという積極的な態度の裏に、可能性としての能力の価値を否定して不可能性としての能力を堪能しようという態度が存在する。性的領野の先端と後端は後者の態度にある。性的関係の本質は、自分が持つことのできないような力を無条件に堪能することにある。「奪うこと奪われること」の論理は、前者の「可能性をめぐる論理」において何よりも重要な意味を持つのに対し、「不可能性をめぐる論理」においては、案外あっけない。そこにはアナログな、相対的な能力の差異による曖昧な階層は存在せず、デジタルな1と0しか存在しえないからだ。そこではむしろ「自分が選ばれることの根拠」は存在せず、無い方が良く、ゆえにマゾヒズムをめぐる幻想ではかえって、「可能性としての能力」を否定する論理が積極的に取られる。その類型的な発想は可能性としての能力をそもそもその根底から否定し、その存在を認めないような究極的なマゾヒズムへ移行できないがゆえに生じるとはいえ、実際的なマゾヒズムの論理を象徴している。

他者の他者は存在しない

 「Q.他者は存在するのですか?A.他者の存在は証明できないのでなんとも言えないです。」みたいな(馬鹿げた)やり取りを見かけた。そう考えると、精神分析家のジャック・ラカンが、「他者は存在しない」というかわりに、「他者の他者は存在しない」と言ったのはえらい!と思う。他者というものは、「自分」というものが存在するよりも確実に存在するものだという発想が、「他者の他者は存在しない」という発言にはある。自分というもの自体が、「他者になろうとする何者か」であって、この世には「他者」と、「他者になろうとする何者か」しかいないのだから、「他者の他者はいない」ことになる。

 高校をやめてから、自分が何を思い悩んでいるのかもわからずいろいろな本を読んでいるうちに、フロイトの本を読んだとき、自分が求めているのはこれだ!と衝撃を受けたことがあった。高校で学ぶような、学んでもしょうがないような暗記教科とは違う、人間の本質について思考を深めていく学問。そのあと精神分析学関連の本を読み進めていくと、必然的にラカンに行きついて、それについて昔何冊か読んだ。ラカンについては、理論の詳細についてはよくわからないけれど、大まかに読んだ。

 ラカンの本で特に好きなのは「ラカン 患者との対話」と「アンコール」の二冊だ。特に前者での発言である「現在の窮地から抜け出す術はないと言わざるを得ません。」が好きでたまらない。ラカンはそもそも人間の限界を強く意識していて、「人間にとって不可能なこと」と、人間が「身の程をしらず果てしなく望むこと」の対立こそ、ラカンが語っていることの根源だと思う。この二冊の本では、そんな「限界」についてほかの本よりも露骨に語られているのが好きだ。

大人の孤独

大人になってからゲームができなくなった、と言う人がいる。

ゲームは時間の無駄だと気付いてやらなくなったという人も結構いる。

実際は、ゲームと言うのは孤独な作業であって、

その孤独に耐えられなくなったからやらなくなったのだと思う。

 

子供のころは、普段から親や兄弟が周りにいて、

そこから逃れられる体験こそ、貴重なものだったはずだ。

大人になると、周囲の人間と本当の意味で親密な関係を築けなくなる。

そうなると、ゲームのような孤独な作業は耐えられなくなる。

瞑想の方法

 今、瞑想というとアメリカ発祥の「マインドフルネス瞑想」が一時的流行りの域を超えて、主流になっているようである。発祥については諸説、というより諸派あり、さらに問題なことに、具体的な方法論についても人それぞれで要領を得ない。もはや、ただ「瞑想」と言うのと、「マインドフルネス瞑想」と言うことにはさして違いがないようにさえ見える。

 しかしながら、古くより「サマタ瞑想」、「ヴィパッサナー瞑想」の二種類が基準として存在している。集中することで意識を深めるサマタ、あるがままに見るヴィパッサナーは、別種のものとして確立されており、その基準に準拠するのが良いように見える。

 サマタとは、呼吸や具体的な対象物に意識を集中しているトランス的な状態のことを指す。一つのものに集中することで、それ以外の思考を切り離す、プラクティカルで分かりやすい方法であると言える。

 一方、ヴィパッサナーは「観」、ありのままに見る、を意味しているが、自分の状態を心の中で実況中継することで、今と言う瞬間に集中するんだとか、ボディスキャンをするんだとか、思考してはいけないだとか、いろいろなスタイルがあって、その方法については共通見解がない。

 ただしここで言えるのは、何かに集中する状態を根拠にするならば、その瞑想はサマタと呼ぶべきであり、ヴィパッサナーがそれそのものとして確立するためには、集中状態には依らない瞑想である必要がある。ひとつのことに集中することでそれ以外の厄介ごとから避難するのがサマタ瞑想なのであれば、集中という方法に頼らずに、自分を救おうというのがヴィパッサナー瞑想だと言える。

 ここに、僕はヴィパッサナー瞑想の特権性を主張する。というのも、集中力によってそれ以外のものを遠ざけるという発想自体は、パチンコや酒によって悩みを追い出そうとするのと大差がないからだ。集中状態という一種の現実逃避、それに依らずに、現代的に言えばChill Outできるという発想に、これら瞑想というものがそれ以外ので日常的行為と一線を画して持つ本質的な独自性、つまり特権性があると考える。

 ヴィパッサナーという概念が標榜する、「ありのままに見る」というのは、執着を捨てて見ることを意味している。執着を捨てて見るというのは、願望を捨てて見るということを意味している。サマタ瞑想においては、集中という糸がひとたび切れればまた混沌の中へ放り出されるがために、集中の持続時間をできる限り引き延ばすという「訓練」の方向へ、意識が必然的に移行するが、ヴィパッサナーの発想の場合は、願望を捨てうるという価値観や、捨ててみたときにどのように世界が見えるか、という体験価値の方向へ移行する。ゆえにヴィパッサナーの世界に、本来訓練や修練の方向性は存在しない。

 ヴィパッサナー瞑想では、それを行っている間、あらゆる望みを捨てる。望みを捨てると、この世のものが、あるがままの姿で現れるようになる。「感動したい」願望を捨てるならば、桜が散るのをみても美しいとは思わない。「痛い思いをしたくない」願望を捨てるならば、スズメバチが来ても怖いとは思わない。「静かになりたい」願望を捨てるならば、上の階の子どもがドタドタ走り回っていても、「ドタドタ走り回っているなあ」と思うだけだ。「誰かと一緒にいたい」願望を捨てるならば、愛するわが子が死んだとしても、「わが子が死んだなあ」で終わりである。そこには悲しみもなければ、喜びもない。楽しみもなければ、苦しみもない。だから、何にもとらわれることがない。それが、ヴィパッサナー瞑想というものだ。

 少なくとも、ただ、座っている間だけは、願望から自分を切り離し、そしてそれらの感情から自分を切り離す。座るのをやめたときにまた、喜びや悲しみや苦しみや楽しみの中に入っていくことになるとしても。

欲望はどれほど人間にとって本質的か

精神分析学は多く説明しているのに、どこまでも本質的な「腑に落ちなさ」を残している。光に向かって落ち続ける蛾のように、裸電球の周りを思想がぐるぐる回り続ける、奇妙な循環論法がその場で彼を捉えるのはなぜか。

 

 

 もし純粋に経済的な思考を考えられるならば、競争というものは起こりえない。競争は経済的論理ではなく、能力主義の論理に基づいている。

 "共産主義"が思い描く社会の本質は、能力主義の無視にある。共産主義は、誤った構造が人間自身の能力を、彼自身から奪うと考えているが、実際は共産主義的思想とは、能力主義を無意識に否定するところの論理であり、労働者としての人間自身から、それを奪っているのである。

 能力主義の考えられないところに、労働者がつまらない労働に反発するところの理由は求められない、という本質的な矛盾が見えてさえいれば、その思想が、力関係の転覆という本来的に能力主義の次元に端を発するものでありながら、能力主義が存在しないかのように理論を進めるところの破滅的な矛盾が見えてくるはずである。

 以上の論理には、"性的領域"は関係しないように見える。しかし、性的領域とは、能力主義の支配する領域である。性的領域以上に、能力(それはもちろん美貌を能力として含む)が問題になる領域は存在しない。性的領域を満たす論理は本質的に「能力」の問題に存する以上、「プラトニック」な関係というのは能力主義の否定そのものであり、能力主義の否定が生じる以上、その関係はもはや性的領域にはありえない。

 

 

 同性愛は"軽い倒錯"であると言える。生来的に、本能的に、異性像を直接的に刺激として受け取る与件は、対称性を美的相貌と捉える与件に並んで、ある程度認めることができる(と仮定しよう)。そしてその与件は、例えば女性身体像への本能的興奮が、その服飾品へ触手を伸ばしていくような側面で、多くの可能性(というよりも可塑性)を本来持っている。その意味合いで、両性愛はその可塑性に素直に由来を認められるし、ゆえに同性愛というのは、同性を愛するという性質そのものであるというよりは、何らかの経緯を経て、"異性"への性的欲求を抑圧することにあり、それは異性愛者が同性愛という可能性を抑圧することから、ほんの少し遠回りしているからである。

 "抑圧"という言葉をわざわざ使うとき、その意味合いは、それを追い出すことそのものよりも、芳香剤が強い香りによって悪臭を上書きしようとするように、それそのものが、ごまかされてはいるものの、悪臭として残り続けているのと同様に、抑圧される対象は、消え去らず残り続けるということにある。同性愛を抑圧する異性愛者において、その抑圧は本能的なものそのものの抑圧というよりは、本能的なものの敷衍の抑圧である。しかしながら、それは可能性としてであっても、立派な悪臭として、残り続けるのである。一方で、同性愛者が性的領域をそれ以上に意識しなければならないのは、同性愛者にとっての悪臭が本能的与件と重なってしまうことにある。同性愛者もまた、本能的与件に従って、異性への興奮を感じざるを得ない。それは異性愛者が少なからず同性への性的興奮を覚えることと重なるが、その強烈さは同性愛者においてのほうが大きい。

 タイの高名な僧侶、アチャン・チャーなどが性的欲求を退けるためにはまず性的刺激を避けるべきだと主張したように、本能的刺激は理性に先行することを否定できない。理性はその意味でそれを拡張することはできるが、それを超越することはできない。本能的与件は、それが本能的であるほど魔力的である。なぜなら無根拠なのに力を持つからである。性愛の根拠はこの魔力にある。つまりこの魔力を理性によって説明しうるという第一歩目の踏み外しにある。そこに現れる異性像の神格化がどう転んでいくかに性愛の問題は現れる。たんなる快楽をたんなる快楽に留めておかない、留めておかない、むしろできる限り遠くへ連れて行こうとさえする意欲こそ、人間における愚かさの根源である。そしてもちろん、それは、能力をただの能力と見做さない発想の根源でもある。能力主義の根幹には、能力を持ったものが、そうでないものが感じることができないような満足、安心を覚えているだろうという予測、幻想、つまりどうしようもない愚かさがある。ベートーヴェンモーツァルトの苦しみを想像できないはずがないのに。

 要するに、それら架空のものが、架空のものであることを強く理解しておきながらなお、生き延びている理由が、性的領域にはあり、それこそが、本能的与件が与える魔力なのである。それは聖書が現実にありうるとは思えないような奇跡にこそキリストの実在性を頼るという逆説的な構造が成立する理由でもある。言い換えれば、相対性の論理は、優越による結果そのものより第一に、優越しているという事実を本来的には希求している。

 

 

 ここで上の二つの問題は、一般的に考えられる同性への憧憬、それがまごうことなく能力主義の土壌、性的領域で生じるということと、しかしそれへの性的興奮が抑圧されているというところで重なる。異性愛者としての男性は、女性の美貌に性的興奮を預けるのに対し、男性の能力には性的興奮そのものは関係させない。それは女性もまた、異性愛者である限り同様に、異性にのみ性的興奮を預けようとする。

 この抑圧の論理に、例えばラカンの場合は「欲望」の問題が強く関係してくる。果てしなく望むところの欲望を受けるものとしての対象が必要になってくる、そのときに、同性は可能性として、異性は不可能性として現れる、だからこそ、不可能性である異性が、果てしなく望むところの象徴としての対象になる、という論理だ。だがこの論理は、「欲望」というもの自体がこの理屈を支えるための拵えものにすぎないところで致命的に欠陥を持っている。精神分析について思想をめぐらす過程で、多くの人が「異性愛」を自明のものとして見ることを軽蔑するのにかかわらず「欲望」を自明のものとして見る傾向こそ、その実質的な循環論法の代表例と言っていい。

 人が能力に焦がれ、可能性に焦がれるうえで、不可能なものへのあこがれを捨てきれないものとして持ち続けると言うこと自体は自明なものと見做して良い。問題は、その実際と、実際に果てしなく望む「欲望」ないしは万能空想などを、人性における本質的なものと見做し、それ以外のものをその派生とみなしてしまうことの距離にある。欲望は、それ自体が、「存在する」ものであるというよりは、存在し得る「可能性」、に過ぎないものである。

 ファルスは能力である。能力を持つということ自体が優越である。一方でその能力は、ある意味で満ちているのに対し、ある意味で空虚である。この距離こそ思想の対象である。世俗的な幸福論がそのような思想より先を行っているのは、能力主義を捨てうるということへの示唆においてである。

 精神分析学の根幹は、"欲望"を絶対的なものと見做す強情さ、能力主義を絶対的なものと見做す執着心にある。それが、彼らが電球に向かって果てしなく落ち続けること、その重力の原因であると言っていい。

 不可能性がある、だから欲望ももちろん存在する、しかし人が不可能性によってのみ生きるわけではないのと同じように、欲望はむしろ空想的な領域、貪欲さの中にのみ存在すると言っていい。精神分析学の問題点は、精神病患者のような、貪欲さの究極例を偶像として掲げ、その貪欲さを人性の一つの側面と捉えるのではなく、人性における本質的なものと捉えることにある。結果的にそれは、能力主義と言う問題のある発想を無条件に肯定することにつながり、そこで暮らすことを当然のものと見做すようになる。しかし、能力主義は、それ自体が苦しみの根源、人間にとって害となる性質である。害となるもの、例えば酒やたばこや麻薬を、本質的なものと見做し、無条件に肯定した場合に考えられる悲劇と同様の状況を、精神分析家に限らない、多くの思想家や哲学者は特に背負い続けている。

 

 

 この世に人間が多く溢れているという事実自体が、美的感覚に背いている。能力主義は相対的な争いの論理であり、その抽出である美は、相対性における願望の究極、つまり超越として、あらゆる相対性を否定しようとする。(恋愛における関係の閉鎖性、つまりその外側を想像しないこと、あるいは交換可能性を否定すること)

想像と現実

 日常生活は未決定によって彩られている。未来のことは、想像に頼るしかない。想像の可能性は「不安と期待」を同時に担っている。現実は、それが多かれ少なかれ、味気ないものであるという形で、想像を決定する。実際に手に入れるものが、いつでも想像を超えるものでないということは、意識されるに値する事実だ。同時に、想像の範疇はときに、というよりも殆どの場合、自分の自覚の範囲を超えたところへ広がっている。例えば自分のこだわり、好みはいつでも自覚されない想像に基づいている。想像の射程は、意識されることがないが、それが行きつくところはいつでも、この味気ない現実に他ならないのである。この重力は、想像の射程が長くなればなるほど、遠近法の摂理に従って、あいまいになる。だからこそ、多くの場合、想像はできる限りその射程を長く伸ばそうとするのである。そして、遠距離と言う曖昧さのなかに、自分が求める空想的現実、つまり理想を信じる。だから理想は、本来敢えて遠くに据えたものなのに、人は理想と現実の遠さについて、不満を言い続ける。

MBTIの16タイプ (MBTIを考える-3)

(本記事を読む前にMBTIの四基軸 (MBTIを考える - 2)を読むことを推奨します。)

 

 さて、今回はMBTIへの理解を深めるために、16タイプを簡易的に分析してみよう。ところであえて最初に述べておくが、あくまで人間はすべての型の間をあいまいに彷徨っているのであって、例えば同じENTPの中にも、INTPに近い人や、ESTPに近い人など、様々な性格が考えられる。

 60%Eの人も、90%Eの人も、同じE型として考えられるのがこのテストのおおざっぱさなので、例えばESFPの人でも、極端にエンターテイナー的な性格を持っている人もいれば、INTJのように落ち着いた内省的な性格を持ち合わせている人も混ざっている。よって以下に述べる性格はあくまで、それぞれの性格型の、最も極端な例、典型的な例を挙げている、ということを忘れずに読んでほしい。

 また同時に、実際に人を分析していくと、すべての人はみなそれぞれ別々の傾向を持っている割に、一様に「普通の人」の顔をしているのに気が付くだろう。性質はそうやすやす表に現れるものでもないし、そう極端に現れるものでもないのである。

 

I型の特徴

 I型は本質的に人を必要としていないため、本質的に冷淡な側面を持つ。IxFx型はF型ゆえに高い共感性を持つが、あくまで自らの認める感情についての共感である。理解できなかったり納得できない感情に対しては概して否定的であり、ゆえに共感する相手は限られる。どんな感情であっても認めようと言うExFx型とは同じF型でも本質的に変わってくる。有り体に言ってしまえば、I型の人間は概して、自分が信じるものへの強さ、強烈さ、個性を持っている。人類にとって本当に重要なものはいつでもI型の苛烈さに由来するし、最も害をなすものもまた、I型の苛烈さに由来する。ゆえに、世間では特に混乱が多いが、I型とE型の判定は、外向的であるか内向的であるかではなく、信念・こだわりへの強烈さ、を基準になされるべきである。

 

IxxP 自分の世界をひたすらに追及する

 IxxP型の本質はハッキリ言って他人を気にしないし、交流の価値も認めないわが道を行く性質であり、必然的に孤立しやすく社会で目立ちにくいパーソナリティであると言える。P型ゆえに実行力も少なく、ただ自由を求め、あてどなく彷徨っては、どんな能力も勝ちえない社会的無能力者になりやすい。また、P型ゆえに人に干渉しないため、概して温和に見えるものの、実際はI型ゆえに、自分の世界に立ち入られることを望まない。ExxP型が持つ本質的な温和さ/軽薄さを阻害する妙なこだわりを持ってしまっていると言える。

 IxTP型はSなら外的な、Nなら内的なものに対して思考を深めていく最も知的なタイプと言える。同時にP型特有の実行性、計画性のなさが、物事の達成を阻害することが多くあるだろう。ISTP型は探求する思想家であり、体験を求めて世界へも社会へも出ていく。xSTx型特有の現実主義と奔放なP型のギャップが、うまくいけばイノベーションを生むかもしれないし、うまく行かなければ、社会不適合につながるだろう。植物学者や昆虫学者、たとえばアリストテレスやファーブルがこの型の典型と言える。一方でINTP型はN型ゆえに現実的なものから遠ざかり、P型の特性と併せ最も社会から疎遠な性格型を形作る。哲学者や数学者がその典型である。IxTP型は感情的な問題を意識することも多いかもしれないが、T型ゆえに秩序の重要性も理解していることもあり、本来的に最も必要としているのはJ型のもつ秩序、実行力である。

 IxFP型は、本質的に快楽主義者的なタイプだ。いわゆるヒッピーと呼ばれる性質に近いのが、ISFP型であると言える。ISFP型は体験への欲があるため社会から疎遠にはなりにくいものの、xSFx型は物事を表層的に捉え深入りしない性質であり、ゆえにI型のわりに、自らの真実を握る性質の美点が発揮されにくく、妙な頑固さを持つわりに、何にこだわっているのか、その価値観自体が自分にとって曖昧なままになるだろうという問題点を持つ。一方INFP型は、自らの感情を深めていくために、独自の世界観を深めやすい。一方で体験をさほど重視しないため、INxP型共通の社会からの疎遠さを持つことになる。IxFP型は自分のこだわりを捨てE型の傾向へ妥協していく道を探るのが良いように見えるが、そう簡単な話ではない。

 

IxxJ 自分の正しさを世界に思い知らせる

 IxxJ型の本質は偏屈さ・頑固さである。そもそもI型には自分の信念への強いこだわりがあるが、J型にもすでに存在するものへの固持がある。そうしてIxxJ型はすべての性格の中で最も深い頑迷さを獲得することになる。それは自分の信じるものに従って世界を整理したいという一種の強烈な野望である。ゆえに社会的成功者の中にはこのタイプに属するものも多くいる。特に独善的、独断的な人々である。またxxTJ型は自分の思考を確立したがる傾向から、自分を律する傾向が強くなり、xxFJ型は感情に従う傾向から他者を律する傾向が強くなる。TとFの判定に困るときにはその指針に従うと良い。

 IxTJ型は論理的な根拠を基に身の周りを整理しようとする。ISTJ型はそれがデータや経験だろうが、INTJ型は幾分恣意的なアイディアになるだろう。ただし、xNxJ型の生むアイディアは、独創的なものというよりは、過去に起こった出来事や発想の恣意的な解釈である。

 ISTJ型はN型ほど恣意的でないがゆえに有能な管理者になるだろう。問題が起きにくい性格ではあるが、場合によっては物事の変化についていけず、P型の傾向と妥協したほうが気楽な場面や、社会から孤立してしまいE型と妥協すべき場面が訪れるかもしれない(特に定年後など物理的に人とのかかわりが途絶える場合に)。イチロー長谷部誠のような管理者的一匹狼を思い浮かべてもらいたい。(イチローはINTJと捉えるべきかもしれないが。)彼らは一匹狼ではあるものの、周りと協調する現実性も持ち合わせている。

 INTJ型はINTx型特有の自分の考えを深めていく傾向があるため、J型の中では最も周りへの働きかけが穏やかになるだろう。逆に言えば、一匹狼的に振る舞うタイプになりやすい。中田英寿大谷翔平藤井聡太のようなタイプである。一人で動く場合には有能になりやすいが、人と関わる場合においては恣意的なアイディアを圧しつける独善的な人間、になってしまう可能性があり、S型への妥協を図るのが良いように思われる。

 IxFJ型は、自らの感情をもとにふるまうためある意味で最も独善的であり、正直に言って最も厄介な人間性を持っていると言える。同じことはすべてのxxFJ形に言えるとはいえ、E型は多様性を認めており、少なくとも他者と感情的に折り合いをつけようとする傾向がある。大してIxFJ型にはそれがない。また、TJ型との違いはなによりその情熱的強烈さにある。xxTJ型はJ型とはいえ他者への干渉が穏やかなことが特徴だが、xxFJ型は苛烈であり、それが判定の目安となる。

 INFJ型はIxFJ型の持つ独善性をN型によって発酵させる真の独善性の塊であり、一部では悪魔そのものと呼ばれ、ヒットラーがその象徴として挙げられる。美点はなによりその情熱、IxFJ型のもつエネルギーである。ただその方向性が完全に恣意的なものであるがゆえに危険性も大きい。その意味で芸術家の岡本太郎は、P型というよりも本来的にJ型の特性を感じさせる。芸術家の中でも、積極的な行動性を示すものには、J型の傾向が見られる。芸人の江頭2:50が(自己判定型のテストによってではあるが)INFJの診断を得ていることも、この性格型の傾向を理解する助けになるだろう。

 ISFJ型はN型のように悪魔的に独善的アイディアを深めることはないにしろ、S型の外向性を持つがゆえに、(何度も言う通り、対世界的な外向性はE型よりもS型が担っている)厄介ごとを引き起こす可能性は全16タイプの中で最も多い。しかしながら同時に、マザーテレサのように確信に基づいた悪魔的野心が社会的成功へつながることもあるだろう。男を操る歴史的な悪女(例えば足利義政の妻、日野富子)はほぼISFJ型と見做していいだろう。

 IxFJ型の美点は感情的確信、すなわち情熱にあるため、ある意味でどのような指針も、その悪魔的魅力を損なう譲歩ということになるだろう。また、彼/彼女の抱いている感情が偶然良い方向に向かうならば、その情熱が世界を良い方向へ導くこともまれにあるだろう。だがもし自分の信念に対して道を譲る気になったならば、E型、T型、P型のいずれにしろ、そのどれかに道を譲らない限り、あらゆる人間関係的トラブルと無縁になることはないと思われる。

 

E型の特徴

 I型の本質的な強烈さと比較するとE型は本質的に他者との折り合いを考慮にいれるため安心して付き合いやすい。人がいないと生きていけない、という態勢のために、ひきこもりやニートのようにもなりづらい。しかし同じ理由で、世間的なトラブルに巻き込まれやすいともいえる。E型の本質は特定の価値観へ踏み込まない“底の浅さ”にある。マルチ商法などを巻き起こしたり巻き込まれたりする『騙されやすい』、あるいは『気軽に人を騙す』典型的なタイプはE型である。

 

ExxP型 みんなで自由に楽しく生きる

 P型は他者を決定しようという熱意が薄いため特に付き合いやすい性質である。また、自分の考えを追及しないE型と、自由を求めるP型から、もっともいい加減な性格を形作っている。社交の場で特に話し続ける人達がいれば、この4タイプのどれかだろう。

 ExTP型、特にENTP型は一般に討論型などと呼ばれるが、攻撃的な討論をしやすいのは、独善性の強さ、他者を決定しようという意志からINTJ型、あるいは討論と言う場に引き出されたときのINTP型も当てはまる。

 ENTP型の場合は、自分が真実を握っているという自覚を持たないこと、その浅さに特徴がある。であるがゆえにI型とは違い、討論のどちらのサイドに立つ場合でも同じように相手を攻撃することができる。また、心から討論の重要性を信じていないため、討論が終わってしまえば、話した内容にさして重要性を認めない。それはI型が討論の内容をもとに自らの思想をアップデート、ないし強化しようとする態度とは違っている。ゆえに攻撃性の低いENTP型は討論型というよりは、単に知的で創造的な会話を楽しむ性質にあり、その思考を深めることにはさして興味がないのである。

 ESTP型はよりxSxP型の特徴として、未知の体験を好む"旅人"の形容が似合う性格型であり、さらにESxP型は人との交流を楽しむため、より一般的な旅人のイメージに近いだろう。またxSTx型はデータを論理的に取り込むことができるため思考が安定しやすく、ESTP型は未来志向でもあり起業家と呼ばれることも多い。I型やF型のような暗い情熱も持ちにくく、天才にはなりづらくとも、一般に有能と呼ばれる人間はESTP型に属するだろう。

 ExFP型は社交性の塊であると言える。ExFx型が本来的に社交的性質であるのに加え、P型は他者を管理しようという意識が薄いため、最も付き合いやすい人格だろう。

 ESFP型はN型に特有の、独自の考えを醸していく傾向が薄く、T型の論理傾向、J型の管理傾向を欠いているため、すべてのタイプの中で最も軽薄なタイプとなる。裏を返せば、ESFx型は最も社交的な性格であり、その中でも自由に振る舞うのがESFP型である。

 ENFP型はESFP型ほど活発でないものの、独自の感性を醸しつつも、自分自身の世界を深めるというよりは、いろいろな人の世界を知りたいという、社交的な変人、軽薄な芸術家である。いわゆる「天然キャラ」を地で行くタイプだろう。ENxP型はN型とP型の特性が、自分自身の世界を深める傾向にあるため、本来はI型に近いものの、どちらかというと自分自身の世界に自信がなく、人を頼る、求める傾向があると言える。

 すべてのE型に言えることではあるものの、自分の考えや思いが絶対的なものではないという発想は、社交的には大きな魅力でありながら、孤立してしまったときには大変な欠点にもなる。場合によって、I型の持つ根拠のない自信のようなものが必要になる場面もあるだろう。

 

ExxJ型 みんなが過ごしやすい世界を作る

  ExxJ型は、他者を管理したいという態勢だが、自分勝手にではなく、折り合いをつけるべきだと考えるため、本質的にリーダーの資質を持っている。問題があるとしたら、本質的にカリスマ性を欠いている場合である。ExxJ型は本質的に他者に依拠する人格、要するに他者が存在しないと自分の存在意義を見出せないタイプであるため、ある意味で最も依存的である。先に述べたとおりxxTJ型は自分を律する傾向が強く、xxFJ型は他人を律する傾向が強い。とはいえE型であるため、他人を律すると言っても他罰的になるというよりは、おせっかいになるという印象であり、自分を律すると言っても、独自ルールではなく、社会的価値観に適応しようと試みる傾向にある。

 ExTJ型は、まずESTJ型は一般的な優等生であり、象徴的なのはアナウンサーなどによく見られるタイプである。いかにも優等生すぎるクセの強さを感じる人たちがいるが、概ねこの性格型によるものだろう。逆にS型のあっけらかんとした浅さ、特にxSTx型特有の人の感情を気に介さない性質故に、E型にも関わらず、人を躊躇わず騙す詐欺師の典型が、このタイプに含まれる。ENTJ型はそれよりは機転が効く印象で、社会的理想像そのものであり、比較的、どのタイプとも上手くやっていくことができる万能型であると言える。

 ExFJ型は、他者を感情的にまとめ上げる保護者タイプである。ESFJ型は周りのケアをしたがるおせっかい焼きタイプであり、ESxJ型に共通の、世間の価値観、常識を大事にする傾向がある。ENFJ型はそれよりは独創性、機知があり、主人公タイプと言われたりもする。主人公は脇役よりも個性がない、と言われたりもするが、それはまさにENFJ型、ESFJ型の特徴だろう。J型であるがゆえに他者を放っておくこともできず、まさに身の回りの世界に平和をもたらすことこそが、これらの態勢の目標になってくる。(いわゆる世界平和の野望を持つためには、I型の苛烈さが必要になってくる。いわゆる世界平和を追求しているものがいるとすれば、それは先に「悪魔」だと述べたINFJ型だろう。)

 

まとめ

 さて、以上を読んで先に述べた四基軸への理解が深まっただろうか。E型は社交的である、ということも事実であるが、自立できない、という欠点として捉えることもできる。T型は論理的に整然としているが、感情的に未熟であることも多い。この通りすべての性質には表と裏があり、どれが良いとはっきり言うことはできない。だが人生における問題はそれらの極端さに基づくことが多いために、自らの極端さを参照して、どのように自分を変えていけるか、考えることには価値があると思われる。そしてそのように自分を変えていく過程には、文中で述べたように、得るものと同時に失うものも多くある。I型がE型の長所へ憧れるときには、E型へ移ることで失わなければならない多くのものが同時に存在するのである。逆に言えば、そのことへの忌避感がその人の性質を維持させているともいえるために、自らの美点を犠牲にすること、例えばI型なら自らの考えの信頼を打ち捨てることで、自分を変えていくことができるだろう、ということが言える。とはいえ、根本的な価値観が人をその態勢に縛り付けている、いうなれば、「とり憑かれている」のだから、それを変革するのは容易なことではない。

 

追記

 

IxxP,IxxJ,ExxP,ExxJの外側が性格の傾向を決めるのに対し、内側のxNTx,xSTx,xNFx,xSFxが認知処理の傾向を決める。NT型は最も鋭い見方をするタイプで、N型ゆえに感情のような抽象的なものも考慮に入れる。ST型はもっとも論理的であり、感情論が苦手な弁護士タイプ。NF型は独自の価値観で世界を洞察していく詩人タイプであり、SF型は物事を最も素直に見る天然タイプと言える。