tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

死と生について思うこと

 昔から30くらいが死に目かなと思っていたが、その年齢を来年に控えて、自分の予感は正しかったのかもしれないと思うようになってきた。紆余曲折経て自分の死生観が固まってきたので、ここに書いておこうと思う。

 論理的に考えて行くと、生というのは全然割に合わない。ギブアンドテイクの論理で行くと、生がテイクするものの多さに比べ、ギブしてくれるものなど殆どないことがわかる。論理で詰めていくと、どうしても死が最適解だという結論が導き出されてしまう。

 世間が言うように、死は悲劇、自死は悲劇というのは全くもって違う。年間3万人の自殺者がいるが、その何百倍もの人が自死を考えたことがあるのだから、自死というのはある意味特殊技能のようなものだと考えていい。僕は今将来のことを切に考えいろいろ選択肢を考えているが、死というのはかなり現実的な選択肢のうちの一つだ。自死というのは、数%の人しか合格できない資格を取って死という会社に就職するようなものだ。生きるのが死への道筋でしかない以上、自死は最短ルートを歩くことでしかそもそもない。

 街なかでたまに、動物の肉を食べるな!というデモをやっている。動物を虐げ殺し食うのは悪だ!その根拠は、動物がかわいそうだからだという。でも、この世にはかわいそうなもの、そして救われないものばかりだ。僕は中卒で、今から働こうと思うと介護や建築、清掃といった奴隷労働にしか就くことができない。僕もプラカードを持って、僕はかわいそうだ!とデモをすべきなのだろうか。どうしてプラカードを持って騒いだり行進したりする人はその効力を信じられるのだろうか。それがどれだけ馬鹿げた行為か自覚してないからだ。自覚していないから、それが彼らにとっては善行でありえる。

 世界遺産にインクをかけたり、工場の機械を破壊してまわるほうがずっと効果がある。社会福祉が成り立つのは、底辺層に轡をつける必要がある限りだからだ。家畜のように反抗する可能性のないものは虐げ続けられる運命なので、プラカードを掲げて歩き回っているだけの無害な人間は、本当は抗議者の次元にすら立てていないし、何ら家畜の役にも立ちやしないのだ。だから環境活動家たちがどれだけ浅はかな次元で的はずれな抗議をやっていたとしても、世間が迷惑する次元で抗議を行っていること自体はけして的はずれではない。

 世間が言うように生命は大切なものでもなければ重たいものでもない。偶像崇拝が当然になり神の名が妄りに唱えられる現代で、本当の意味で信仰と呼べるのは、生命の重さという観念だ。人は死ぬのが当たり前という論理的発想とそれを妄りに重くする幻想の距離を見よ。