tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

幼児的願望について

 今朝は午前二時に起床。昨日の午前八時に寝て、優に十八時間は寝た計算だ。この一週間ほどは毎日十八時間近く寝ている。意欲がない。やることがないから、意欲がない。意欲がないから、やることがない。

 昨日インターネットで見つけた拒食症の人物の画像が未だに目の奥に張り付いている。拒食症、僕だってそうだ、みんなだってそうだ、乳児期への願望を十分には捨てきれないのだから。一昨日の水曜日のダウンタウンで、芸人が催眠にかけられるシーンが出てきた。催眠、怪しいそれは、茶番の土壌である。催眠は、被催眠者の願望に、単純に支えられる。催眠術師は、被催眠者が文字通りリラックスした状態で、願望を素直に表現することの許容を示す。願望を素直に表現するとき、出てくるものは、一般的に、幼児期的なものであり、そして病的に、乳児期的なものである。願望を素直に表現することの難しさは、出てくるものの幼さに比例する。だから、大人が性的願望を恥ずかしいものとみなし隠蔽することは正当、あるいは妥当である。子供ですら、それに対してショックを受ける、つまり恥ずかしいものとみなし、隠蔽するのだから。そしてそれは、実際に恥ずかしいもの、捨て去られるべきものなのである。それは乳児期的なもの、つまり現実に即していないものなのだから。

 このブログを発見したのは一年ぶり。この一年の間に僕は十分に去勢されえなかった。つまり、もう手になすことがなくなった。ニート、ひきこもり、それを想像すれば、僕はそれそのものである。廃人。

 このブログをおおまかに読み返しながら、一年とちょっと前には、これほど書くことに飢えていたということを思い出した。僕はなんであれ、ものを書くということに自分の存在を支えられてきた。僕が立っていない時期は、僕がものを書かなかった時期であると言って良い。一昨年は精力的に書いたのに、去年は見事に何も書かなかった。去年が僕にとってどれだけ空白であったか。思い出そうと思っても、何をしたか思い出すことができないし、書かれたものがないのだから、調べることすらできない。そんな一年だった。僕がどれだけ書くことのブランクを抱えているか、この文章を読めばすぐわかる。

 僕は僕が書くものが好きだ。日常のくだらなさと、書く立場の落差がそのまま好きだ。少しの思想的真理も語られていないと知りながら、僕は僕の文章を読み返す。

 定期的に名前を変えたくなる。室谷明という名前は、僕がそう名乗っていた時間の嫌な記憶と一緒くたになっている。でも僕がこの名前を好きなのは、uoaei,すべての母音を含んでいて、それが可能性についてという素敵なブログのタイトルにぴったりそぐうからだ。

 今は働いていないし、どこにも出かけないし、だから書くこともないのだが、それでも書く。これから。上達とは、無駄がなくなること、洗練されていくということ。それ以外にはない。正確で、丁寧であること。言い換えれば、曖昧でなく、雑でないこと。