ベーシックインカムなどとのたまっている。
ふざけるな、実現不可能だ、と言いたくなる。
最近の潮流は「多様性」だと捉えられているが、
本質は、それらの「一様性」である。
それらはみな、「競争の否認」なのである。
運動会の徒競争で、順位をつけるのをやめようという発想が物議を醸したことがあった。
今社会問題として生じていることも、同じ発想に他ならないのである。
美人と不細工との競争の否認。
動物と人間との競争の否認。
男と女の競争の否認。
そしてベーシックインカムという発想は、
開発途上国と先進国との競争の否定なのである。
競争をせず、だれもが平等に給料をもらおうという発想は一見人道的だ。
だが、そういった豊かさが、外国の貧しさに基づいていることは無視されている。
先進国内での競争がなくなったらどうなるだろう?
競争し続ける開発途上国が、先進国との競争に勝るようになるのである。
だから先進国が豊かさを保つためには、やはり競争に頼るほかないのである。
競争の否認は現代のブームとなっているが、
誰もがどこかでその無理を感じている。
人間はなぜこれほど豊かになってまで、汗水垂らして働かなければいけないのか?
それは、いまだ世界には競争があるからである。
つまり、「これほどの豊かさ」はいまだに、
貧しい国を圧しつける力の必要の下にあるから、なのである。
僕が言いたいのは、ベーシックインカムが実現するのは、
個々の国の政策としてではないということである。
本当に競争が必要なくなるところまで、
この世界に豊かさが飽和したとき、
そのとき、初めてベーシックインカムが成り立つのである。
言い換えれば、この世界に存在するすべての人が豊かになったとき、
それ以外にベーシックインカムは成り立ちえないのである。
僕は、自然に興味を持った人がヴィーガンになるというよりも、
自然に興味を持ったヴィーガンが肉食を始めるような方向性こそ、
本来「自然」なのじゃないかと言いたい。