原始仏教の論理は、それが正確に捉えられるのであれば、願望を否定する論理である。
同時に、その定義による限り、世俗の論理とは、願望の論理である。
願望とはなにか、その出自は文法的可能性にある。
人間が生きている世界とは、文法的に、烏は黒いという言及と、烏は青いという言及が等価であり得る世界である。
そして、文法的に等価な、烏が黒いが関係によって事実として承認され、烏が青いが関係に否認されるとき、烏が青いという言及が、非事実として規定されるのである。
非事実は必ずしも願望されないが、事実と非事実とが同様に扱われる文法の世界は、願望によって利用される。
願望の論理は、非事実をなんとかして、承認される形へ変形させようとする。
そうして生まれた、承認されうる非事実こそが、まさしく願望である。
ここに可能性として現れる「非事実への承認」を、原始仏教は否定しようとする。
瞑想が私を仏にするという発想や、瞑想している私はすなわち仏であるという発想はともに、
その言及がどうしようもなく、願望そのものである姿をあらわにしている。
なぜならそれはともに事実ではないのにかかわらず、文法に支えられ、承認へこじつけようとする言及だからである。
願望と承認された事実、そして事実そのものとを区別する意識がない限り、
原始仏教へ忠実な発想は期待することができない。