最近は自分が考えてきた人生にとって「余計なこと」について、あまり考えていませんが、少しだけ考えていました。
特定の行為への依存性は、こうありたいというセルフイメージと切り離すことができないのではないかということです。
もちろん物質的な依存性や、純粋な恒常性への依存という要素もあるのかもしれないと思いますが、
その行為を取ることになった動機が「こうありたい」という深層的なセルフイメージと重なるとき、
その行為の依存性は現在に矛盾として現れるのではないかと思われます。
言い換えれば、純粋に物質的な依存性や恒常性への依存は、0か100でしか迫らないと思います。
することもできるし、しないこともできるという次元ではもはや現れません。
僕は欲求と欲望が対立しているというような状態を少なくとも信じていません。
欲求は欲望に昇華されてはじめて欲望と対立できるのだと思います。
対立できるところではすでに欲望と欲望が対立しています。
性欲に負けて、というのは、性的欲求でなく、性的欲望が、他の欲望に打ち勝ったのです。
すべての欲望がそうであるとおり、性的欲望は、すでに人格的なものです。