tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

マゾヒズム再考

 気が付けば3月10日だ。春の匂いをかぐと、不思議に昔起こったいろいろなことを思い出す。ふと部屋を出て見ると、いつもとは違う場所で猫がくつろいでいた。暖かくなると、いろいろな場所でくつろぐようになる。冬には暖が取れる限られた場所でしかくつろげなかったけれど、春になるとどんな場所で怠けることも許される。春は許しの季節だ、春は愚行の季節だ、いろいろな愚行を促すから、いろいろな出来事が起こるのだ。だから春になると、不思議にいろいろな出来事を思い出すのだ。

 

 

 僕が一番好きな"詩人"は、フランス人のジャック=マリー=エミール・ラカンだ。僕が一番好きな彼の言葉は、"精神病"患者に向けて放った、「現在の窮地から抜け出す術はないと言わざるを得ません。」という言葉だ。多くの精神分析家が症例や理論を残しているが、ここまではっきりと、治らないと言ったのはラカンが唯一かもしれないと思う。不可能性というものを強く意識していたからこそ、「現在の窮地から抜け出す術はないと言わざるを得ません。」と、はっきり言うことができたのだと思う。勘違いしないのでほしいのは、諦めが尊いなどと言うつもりはないということだ。ラカンの言葉に励まされるとするならば、この世の中の多くのことは依然として「現在の窮地から抜け出す術が"ある"と言わざるを得ない」ということだ。それなのに、多くの状況は依然として"可能かどうかわからない"と言ったあいまいな態度をとっているのだ。ラカンが「不可能だ」とはっきり言ったということは逆を返せば、そうでないほかのあらゆる事象は、「可能だ」とはっきりと言えるということなのだ。

 

 

 春になるといろいろな愚行を犯したくなって、小さなピアノの曲を作りたくなったけど頓挫している。春になるといろいろな考えが頭の中で生まれるようになって、今朝シャワーを浴びながら、マゾヒズムについてちょっとした捉えなおしができるような気がした。今までは、マゾヒズムを贖罪などと関連付けて考えることが当然だと思っていたけれど、そのあまりに"愚からしい"構図は、また違った動機によって生み出されているのではないかと思った。というのは、マゾヒズムの本質は、自分を貶めることの快楽なのではなく、偉大な存在を求めているということへの誤魔化しのために、自分を貶めることで、相対的に偉大な存在を、しょうもない存在としての形で実現できるという、いわば一種のはにかみとして捉えることが可能なのでは、と思ったのだ。

 

 

 単にマゾヒズムと言っても、世俗的には寝取られ願望、のように、あまりに捉えやすい三角関係を基礎とする典型例を、破滅願望としてマゾヒズムに括ることも多い。しかしそういった"三角関係"の本質は、考えうる限り最悪の不幸を想定することによる安心という、一種の「究極の貪欲さ」を示すものであり、それはある意味では露骨に「完全な欲望」の形であって、倒錯ではなく、むしろ最もまっとうな、あるいはまっとうされた欲望のひとつの形と捉えたほうが良い。人は寝取られ願望のなかで矮小な個人である自覚を強いられるのではなく、実際は、性的理想像という対象を失っても問題なく生きていくことができる自分を確認する満足、万能感を獲得できるのが、寝取られ空想の構造であり、だからこそそれがあまりに率直で、つまりあまりに幼稚な構造である理由なのだ(もちろん、その幼稚さは表面的には苦しみと言う形で自覚的には隠蔽されるのだが)。ここで幼稚というのは、高次なものに対して低級という意味だが、けして蔑む意味での表現ではない。ただ、そこには欲望に対する恥じらいやはにかみが含まれておらず、そういった機制を利用せずとも安易に獲得できる――普遍性を持った――欲望の現れ方(つまり症状)だという意味だ。話は逸れたが、ここでいうマゾヒズムはそのようなものは含まない。女性と男性の一対一関係の内部で閉鎖的に生じる関係、つまり倒錯を含む関係、さらに言えば、"誤魔化しを含んだ"ものとしての関係こそが、ここでマゾヒズムと呼ばれるべきものであり、それらは区別されければならない。

 

 

 その"本来のマゾヒズム"は、現実社会では鎧を着て仮面をかぶり、立派なものとして自分を装う一方、自分自身で自覚している弱みや他者や社会に対する不満、不安を、裏の関係としての性関係で代償するというのが一般的な捉え方であると思う。つまり弱い自分をさらけ出すことの快楽、弱い自分を受け入れてもらえる、認めてもらえることの満足であるという捉え方だ。その見方をもう少し穿ってみると、贖罪としてのマゾヒズムの姿が現れてくる。罰せられる快楽。本来罰せられるべきなのに、日常社会では罰せられない自分自身の弱さが、そこで捉えられ、罰せられることで得られる満足感、それは、どうしてマゾヒズムサディズムに対置することを要求するのか捉えるために必要な見方だが、どうにも不完全で、マゾヒズムの本来の要求は、「全肯定」であるべきなのではないか、と想像したくなる。つまり、自覚的な自分の弱さへの代償としてならば、罰せられることの必然性はなく、ただそれを肯定してもらうという発想へ流れていくほうが自然なのではないかという違和感である。長らくその不完全さが引っ掛かっていたが、実のところ、マゾヒズムが呼び起こす関係は、「自分が弱い存在でなければならない」ちょっと違った理由――隠蔽された理由――があるのではないか、というのが今回の問題というわけだ。

 

 

 一言で言うと、本来のマゾヒズムがその関係の中に隠そうとしているものとは、"真に偉大なものを求めることへの躊躇い"なのだ。つまり、本来人間が求めるもの、完全な存在、いわば「神」を、人は、どういうわけか、露骨に求めることを避けるという前提があるのだ。そして、「神」を求めるのを避ける理由というのは、この世が不完全な理由を説明できなくなるからなのだ。この躊躇いは当然起こるべきものだ。ユダヤ教キリスト教のような宗教がそのラジカルさにおいて犯している罪は、この躊躇いをいろいろな方法や理屈で避けようとしたということだ。ヨブ記が象徴的に示すような、「罪と罰の存在理由」への説明は、言ってしまえば最もラジカルな――最も汚らわしい――まやかしなのだ。その意味では、マゾヒズムはその率直な疑念、――完全な神がいるならどうして自分は不完全な暮らしの中で暮らしているのか――に対して、一神教の発想よりは正直であったからこそ、また別の方法でその疑念に対処しなければならなかったということだ。そしてその疑念が、性欲という自らの存在の無理由性の象徴と結びついたことはさして不思議でもない。マゾヒズムでは明らかに弱みとして強調される"性欲求"は、偉大な存在を求める"性欲望"を成立させるための口実として使われる。マゾヒズムに限らず性的構図における、性欲求を根拠に性欲望が生まれているのだとする発想は、性欲望が性欲求を利用しているという実態をごまかしている。そして、自分を貶めるということは、それ自体が率直な願望のあらわれという訳ではない。それは、完全な対象、偉大な対象としての性対象を、"不完全だが偉大な"存在として顕現させるために、自分を矮小化する必要性に駆られて起こるのだ。

 

 

 というのが、今朝僕がシャワーを浴びていたとき、ぼんやりと頭に浮かんだことだった。長くなってしまったから、ひとくくりに言うならば、本当は、人は、美しい女性だとかいうものをはるかに超越した、偉大な神を求めているのだ。つまり、即座に自分を救済してくれる、完全な存在を求めているのだ。だが、それを信じられるほど、人は素直にはなれないし、それを信じられる根拠は、この世にはありもしないのだ。そうでありながら、偉大な神を依然信じようとする何らかの理由を持つものは、宗教家として、強引な理屈をこねたり、祈りという思考停止に自分を追い込みながら、偉大な存在を'敢えて"求めようとする。そうでない人々は、その願望をいったん諦め、別の形で実現しようとする。その結果がいわゆる世俗的な"恋愛"の状況である。そしてマゾヒズムは、その恋愛の状況の括りのなかで、相手を普通の恋愛より理想化する方途として、あえて自らの矮小化を謀るのである。そして自らの矮小化の根拠として、性欲求という、自らがコントロールすることができない存在理由不明の欲求を持ち出してくる。すると、それを自在に操ることができる対象として、女性というものが偉大な神のように現れてくる。そこまで状況が整理されたところでようやく、偉大な存在を信じられることの喜び、仮想的な安心を得られることができるのである。そこに到来する「贖罪」という行為は、キリスト者においても同様に、自らの矮小さを強調するためのアピールに過ぎないということだ。この思い付きが単なる「言い直し」と違うと言いたいのは、僕は贖罪という一見神秘的で魅力的な行為の重要性、価値を、今ここではっきり否定する、否定できるということにあると言っていい。