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欲望はどれほど人間にとって本質的か

精神分析学は多く説明しているのに、どこまでも本質的な「腑に落ちなさ」を残している。光に向かって落ち続ける蛾のように、裸電球の周りを思想がぐるぐる回り続ける、奇妙な循環論法がその場で彼を捉えるのはなぜか。

 

 

 もし純粋に経済的な思考を考えられるならば、競争というものは起こりえない。競争は経済的論理ではなく、能力主義の論理に基づいている。

 "共産主義"が思い描く社会の本質は、能力主義の無視にある。共産主義は、誤った構造が人間自身の能力を、彼自身から奪うと考えているが、実際は共産主義的思想とは、能力主義を無意識に否定するところの論理であり、労働者としての人間自身から、それを奪っているのである。

 能力主義の考えられないところに、労働者がつまらない労働に反発するところの理由は求められない、という本質的な矛盾が見えてさえいれば、その思想が、力関係の転覆という本来的に能力主義の次元に端を発するものでありながら、能力主義が存在しないかのように理論を進めるところの破滅的な矛盾が見えてくるはずである。

 以上の論理には、"性的領域"は関係しないように見える。しかし、性的領域とは、能力主義の支配する領域である。性的領域以上に、能力(それはもちろん美貌を能力として含む)が問題になる領域は存在しない。性的領域を満たす論理は本質的に「能力」の問題に存する以上、「プラトニック」な関係というのは能力主義の否定そのものであり、能力主義の否定が生じる以上、その関係はもはや性的領域にはありえない。

 

 

 同性愛は"軽い倒錯"であると言える。生来的に、本能的に、異性像を直接的に刺激として受け取る与件は、対称性を美的相貌と捉える与件に並んで、ある程度認めることができる(と仮定しよう)。そしてその与件は、例えば女性身体像への本能的興奮が、その服飾品へ触手を伸ばしていくような側面で、多くの可能性(というよりも可塑性)を本来持っている。その意味合いで、両性愛はその可塑性に素直に由来を認められるし、ゆえに同性愛というのは、同性を愛するという性質そのものであるというよりは、何らかの経緯を経て、"異性"への性的欲求を抑圧することにあり、それは異性愛者が同性愛という可能性を抑圧することから、ほんの少し遠回りしているからである。

 "抑圧"という言葉をわざわざ使うとき、その意味合いは、それを追い出すことそのものよりも、芳香剤が強い香りによって悪臭を上書きしようとするように、それそのものが、ごまかされてはいるものの、悪臭として残り続けているのと同様に、抑圧される対象は、消え去らず残り続けるということにある。同性愛を抑圧する異性愛者において、その抑圧は本能的なものそのものの抑圧というよりは、本能的なものの敷衍の抑圧である。しかしながら、それは可能性としてであっても、立派な悪臭として、残り続けるのである。一方で、同性愛者が性的領域をそれ以上に意識しなければならないのは、同性愛者にとっての悪臭が本能的与件と重なってしまうことにある。同性愛者もまた、本能的与件に従って、異性への興奮を感じざるを得ない。それは異性愛者が少なからず同性への性的興奮を覚えることと重なるが、その強烈さは同性愛者においてのほうが大きい。

 タイの高名な僧侶、アチャン・チャーなどが性的欲求を退けるためにはまず性的刺激を避けるべきだと主張したように、本能的刺激は理性に先行することを否定できない。理性はその意味でそれを拡張することはできるが、それを超越することはできない。本能的与件は、それが本能的であるほど魔力的である。なぜなら無根拠なのに力を持つからである。性愛の根拠はこの魔力にある。つまりこの魔力を理性によって説明しうるという第一歩目の踏み外しにある。そこに現れる異性像の神格化がどう転んでいくかに性愛の問題は現れる。たんなる快楽をたんなる快楽に留めておかない、留めておかない、むしろできる限り遠くへ連れて行こうとさえする意欲こそ、人間における愚かさの根源である。そしてもちろん、それは、能力をただの能力と見做さない発想の根源でもある。能力主義の根幹には、能力を持ったものが、そうでないものが感じることができないような満足、安心を覚えているだろうという予測、幻想、つまりどうしようもない愚かさがある。ベートーヴェンモーツァルトの苦しみを想像できないはずがないのに。

 要するに、それら架空のものが、架空のものであることを強く理解しておきながらなお、生き延びている理由が、性的領域にはあり、それこそが、本能的与件が与える魔力なのである。それは聖書が現実にありうるとは思えないような奇跡にこそキリストの実在性を頼るという逆説的な構造が成立する理由でもある。言い換えれば、相対性の論理は、優越による結果そのものより第一に、優越しているという事実を本来的には希求している。

 

 

 ここで上の二つの問題は、一般的に考えられる同性への憧憬、それがまごうことなく能力主義の土壌、性的領域で生じるということと、しかしそれへの性的興奮が抑圧されているというところで重なる。異性愛者としての男性は、女性の美貌に性的興奮を預けるのに対し、男性の能力には性的興奮そのものは関係させない。それは女性もまた、異性愛者である限り同様に、異性にのみ性的興奮を預けようとする。

 この抑圧の論理に、例えばラカンの場合は「欲望」の問題が強く関係してくる。果てしなく望むところの欲望を受けるものとしての対象が必要になってくる、そのときに、同性は可能性として、異性は不可能性として現れる、だからこそ、不可能性である異性が、果てしなく望むところの象徴としての対象になる、という論理だ。だがこの論理は、「欲望」というもの自体がこの理屈を支えるための拵えものにすぎないところで致命的に欠陥を持っている。精神分析について思想をめぐらす過程で、多くの人が「異性愛」を自明のものとして見ることを軽蔑するのにかかわらず「欲望」を自明のものとして見る傾向こそ、その実質的な循環論法の代表例と言っていい。

 人が能力に焦がれ、可能性に焦がれるうえで、不可能なものへのあこがれを捨てきれないものとして持ち続けると言うこと自体は自明なものと見做して良い。問題は、その実際と、実際に果てしなく望む「欲望」ないしは万能空想などを、人性における本質的なものと見做し、それ以外のものをその派生とみなしてしまうことの距離にある。欲望は、それ自体が、「存在する」ものであるというよりは、存在し得る「可能性」、に過ぎないものである。

 ファルスは能力である。能力を持つということ自体が優越である。一方でその能力は、ある意味で満ちているのに対し、ある意味で空虚である。この距離こそ思想の対象である。世俗的な幸福論がそのような思想より先を行っているのは、能力主義を捨てうるということへの示唆においてである。

 精神分析学の根幹は、"欲望"を絶対的なものと見做す強情さ、能力主義を絶対的なものと見做す執着心にある。それが、彼らが電球に向かって果てしなく落ち続けること、その重力の原因であると言っていい。

 不可能性がある、だから欲望ももちろん存在する、しかし人が不可能性によってのみ生きるわけではないのと同じように、欲望はむしろ空想的な領域、貪欲さの中にのみ存在すると言っていい。精神分析学の問題点は、精神病患者のような、貪欲さの究極例を偶像として掲げ、その貪欲さを人性の一つの側面と捉えるのではなく、人性における本質的なものと捉えることにある。結果的にそれは、能力主義と言う問題のある発想を無条件に肯定することにつながり、そこで暮らすことを当然のものと見做すようになる。しかし、能力主義は、それ自体が苦しみの根源、人間にとって害となる性質である。害となるもの、例えば酒やたばこや麻薬を、本質的なものと見做し、無条件に肯定した場合に考えられる悲劇と同様の状況を、精神分析家に限らない、多くの思想家や哲学者は特に背負い続けている。

 

 

 この世に人間が多く溢れているという事実自体が、美的感覚に背いている。能力主義は相対的な争いの論理であり、その抽出である美は、相対性における願望の究極、つまり超越として、あらゆる相対性を否定しようとする。(恋愛における関係の閉鎖性、つまりその外側を想像しないこと、あるいは交換可能性を否定すること)