tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

マゾヒズムの論理

 性的領域は能力主義の先端だということを以前の記事「欲望はどれほど人間にとって本質的か」の中で副次的に書いた。だが性的領域の本質が「能力をめぐる闘争」であるとはどういうことだろう、簡潔かつ具体的に書いておく。

 まず性的領野における「能力」は一つではないという問題がある。特に同性が持つ能力と異性が持つ能力は異なっているように見える。これは厳密には「可能性としての能力」「不可能性としての能力」と言い換えることができる。性的関係を能力をめぐる闘争とみる視点では、これらの能力の区別が難しいということが言える。一方「奪うこと奪われること」を主軸に置く場合、「奪う者」と「奪われるモノ」が「自分」と「他者」という曖昧な区分けのより直接的な表現になる。実際には、「自分」と「他者」という区分と「奪う者」と「奪われるモノ」の区分は別々に存在して、マゾヒズムにおいて「自分」が「奪われるモノ」に立つ水準、つまり「他者」を「奪う者」と見做す水準が考えられる。可能性としての能力において不可能性としての能力をいわば征服しようという積極的な態度の裏に、可能性としての能力の価値を否定して不可能性としての能力を堪能しようという態度が存在する。性的領野の先端と後端は後者の態度にある。性的関係の本質は、自分が持つことのできないような力を無条件に堪能することにある。「奪うこと奪われること」の論理は、前者の「可能性をめぐる論理」において何よりも重要な意味を持つのに対し、「不可能性をめぐる論理」においては、案外あっけない。そこにはアナログな、相対的な能力の差異による曖昧な階層は存在せず、デジタルな1と0しか存在しえないからだ。そこではむしろ「自分が選ばれることの根拠」は存在せず、無い方が良く、ゆえにマゾヒズムをめぐる幻想ではかえって、「可能性としての能力」を否定する論理が積極的に取られる。その類型的な発想は可能性としての能力をそもそもその根底から否定し、その存在を認めないような究極的なマゾヒズムへ移行できないがゆえに生じるとはいえ、実際的なマゾヒズムの論理を象徴している。