ぼーっと考えていたのは中央集権のことだった。
もし中央が完全に支配できるなら最高の構造だ。
でもその目は細部へ行き届かないから地方を頼ることになる。
中央集権というのはいわば派遣の政治なのだ。
小から大へズームアウトしていったとき、
どうして国家と言う安定した構造が限界のように現れるのか。
それは戦争による利害関係の限界なのだ。
宇宙戦争が起こったとき、はじめて地球は平和になるという言い方があるが、
平和になるかはともかく、その時初めて「地球人」という概念が生まれるのだ。
航海技術が生まれ日本に外国人が脅威として迫りえたとき国家の概念が生まれた。
日本と言う国が明治以降急速に発展した時の動因というのは、まさにそれなのだと思う。
陸続きの中で起こる戦争とはまた違った国家としての団結があり得る条件なのだと思う。
アメリカとかロシア、あるいはヨーロッパにおける団結の論理は同じではない。
アメリカは特にマスメディアによる影響が大きいように思うし、ロシアはより実際的な脅威に出くわしていたり。
とはいえここで言いたいのは、国家と言うのは限界に存在するからといって、
それが絶対的なものであったり、他の構造と比べて特権的なものである根拠はどこにもないということだ。
吉本隆明が共同幻想といったとき、そこで指摘されていたことと、指摘されえなかったことが同時にここにあると思う。
共同幻想という概念は、国家という限界が過大評価されすぎていた現実を、
なんとか捉えようとして生まれた概念でありながら、
かえってその過大評価を裏付けるようなところに行きついてしまった。
共同幻想、の概念は自己幻想、対幻想という別の'関係'とともに提示されるが
この区分けでは地方自治体も共同幻想の文脈にあるはずだが、その幻想性の薄さをいまひとつ説明しきれない。
"上から決められる","関係に決められる","外から決められる"という恐怖の世界、それが共同幻想の世界だ。
だがそれは、怪物的に捉えられすぎている。
ユングの世界でもないが、人間はもっと初めから、つまり国家のような構造によってではなく、
どちらかというと歴史や言語によって、さらに原初的に決められる。
さらに言えば、できる限りドライな機関としての統治組織としての国家という理想を、
幻想が阻害、破壊するというよりも、ドライな機関としての統治組織、"中央政府"という概念自体が幻想なのだ。
なぜなら中央政府の本質は、中央になく、結局のところその構造が生み出す地方の「派遣、代行」、要するにその落差にあるから。
伝言の回数が多いほどエラーが起こりやすくなる。落差が多ければ多いほど"誤解"は大きくなっていく。
国家と言う"狂騒"は共同幻想という独自の"心性"に根付くというよりも、
国家と言う限界にぶち当たるところの狼狽が、
現実の関係、要するに現実の条件の、見せかけの原因のように機能するのだ。
ぼーっと考えていたので、複数の論理の線が走っているが、フーガのように統合する。
ここで言いたいのは、どんな経路を経たとしても
はなから希薄な「中央機関」という概念が、怪物になることはできやしないのだ。
どこまでいっても、怪物というのは戦争、競争、そのものなのだ、
それが味方がとる鬼の形相として見えるとき恐ろしくなるだけで、
国家自体が本来的に怪物だというわけではない。
たまたま戦争、競争における区分けとして国家がそこにあるだけなのだ。