tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

MBTIの四基軸 (MBTIを考える - 2)

 今回はMBTIが人の傾向を判断する、四つの基軸を見ていこう。MBTIに興味を持った人はまず、インターネット上のテストなどを試すだろうが、いわゆるMBTIテストは自分がこう思われたいという無意識的判断が出やすく信頼に値しない。実際多くの人が誤ったMBTIタイプへたどり着いている。

 それよりは、具体的な基軸を理解した上で、自らはどちらの傾向をとりがちかじっくり考える方が良い。なお、最近では(A-T)という第五の基軸を用意する流行りがあるが、四基軸の捉え方自体が異なってしまうため、ここでは採用しない。

 MBTIでは四つのアルファベットを並べて人間の性格を表現する。たとえばENTP,ISTJ,ESFP、といった具合に。そして今回はその具体的な意味を説明していくというわけだ。

 

 E ↔ I

 S ↔ N

 F ↔ T

 J ↔ P

 

1.人生の価値をどこに置くか 多様性を認める(E) ↔ 唯一の真実を信じる(I)

 公式にEとIはFavorite worldの違いだと定義されている。これは、真実は唯一であるとみなすか、それとも多様であるとみなすかという判断基準で捉えたほうが分かりやすい。これを単純に外向的(社交的)、あるいは内向的とみなす考え方は間違っている。価値観が結果的に社交性に影響するだけであり、本質ではない。

 E型は人々が持つ多様な価値観に一定の価値を認め、それゆえに交流を求める、あるいは交流を必要なもの、有意義なものと見做す。ゆえに独善的になりにくい。一方I型は一つの真実があるとみなし、自分が理解できない価値観を受け入れない。彼らにとって多様性は粗製乱造に似た、蔓延る害である。ゆえに交流、社交は彼らにとってあまり価値のあるものではない。彼らが人を求める場合は、彼らが持つと想定される一つの真実に惹かれるからであり、多様な価値観に触れたいからではない。I型は真実を探求し続けるのに対し、E型は特定の真実を探求することはなく、多様な価値観に触れること自体に喜びを見出す。

 ゆえに、概してIxxx型は偏屈であるということが言える。ただし、IxxJ型が自分の信じる真実を他人にも反映させようとするのに対し、IxxP型はただ無視するだけであったり、INxx型は思い込みで物事を認識しやすいのに対し、ISxx型は受容自体は正確に行いやすい、といった傾向の差が表れてくる。

 INTP,ISTPに哲学者の傾向が現れやすいとはいえ、それは一般に信じられているようにT型が強く影響しているというよりも、 何よりまずI型の比重、一つの真実を信じるかの比重の方が大きいと言える。

 どちらにしろ一般的に言われている外向性、内向性をそのままEとIに適応することはできないため、判断はそう思われているほど容易ではない。ただしI型は自分の世界を強く持っており、E型と比べはるかに人と意見の違いによって衝突しやすいだろう、ということは言える。この衝突がE↔IではなくJ型のような特質によって起こることもあるので結局判断は容易でないが。

 

2.世界をどう受容するか 体験・観察(S) ↔ 印象・想像(N)

 S型は物事を捉えるときに、その具体的な特性、観察や体験自体を重視する。一方N型はそれを全体的な部分と捉え、その[論理・感情]的影響を重視する。S型のアーティストは写実的であり、N型のアーティストはアブストラクトである。外から見たときにぱっと見分けづらいのがこの基軸であるように思われる。また単純に、S型は慣例的でありN型は独創的であるとみなされることもままあるが、それはどちらかと言えばJ↔Pの比重の方が大きい。

 先にいわゆる外向性、内向性はE↔Iが決めるのではないと先に述べたが、社交性(つまり対人間)の基準を除いた対世界での内向性、外向性の違いが、S↔Nに現れると言っていい。つまり植物学者のように世界を歩き回ったり、旅行して世界中を見て回りたいタイプは体験・観察を重視するS型である。一方、哲学者や安楽椅子探偵のように内的世界を彷徨い自体的に満足するタイプはN型である。

 また、S型は外的なものの姿そのものを重視するため、思考が掘り下げられにくく、物事を浅はかにとらえやすい。N型はそれよりも印象を重視するために、思考を掘り下げやすい。S型はゆえに単純であり、N型はゆえに複雑である。INF型とIST型を比べると、ISTのほうが論理的であるのに、その思考の深さ自体はINFのほうがずっと深いということも言えるだろう。SかNかを判断するときには、その人物がどれだけ単純かを見るのが、判断の上では一番たやすいように思われる。

 

3.根拠をどこに求めるか 論理(T) ↔ 感情(F)

 Tは思考と言うより論理であり、カントのように「誠実であるということは、神聖で、無条件的に命令する理性命令であって」などと、ものごとに論理的な定義を求めるのがT型の特徴である。一方ヘミングウェイのように「善とは後味の良いことだ。悪とは後味の悪いことだ。健康は後味が良いし、病は後味が悪い。尾を引く。」などと感情を重視するのがF型だ。それは価値観の違いであり、必ずしも頭の良し悪しを示すものではない(頭の良し悪しは先述の通り、S⇔N型の比率により強く反映される)。また、一般的に男性が論理的、女性が感情的だと言われるが、普遍的な事実とはいえない。

 S型に比べN型のほうが論理や感情に深入りしやすく、たとえばxNTx型は論理を深めやすいし、xNFx型は感情を深めやすい。さらにI型の"一つの価値観に拘る"性質を加えると、INTx型、INFx型は第四基軸の決定を待たずして学者ないし詩人的性質を深く備えてくると言えることが分かるだろう。とはいえINTx,INFx型はそういった性質から、本質的にJ型に偏りづらい(既存の価値観の敷衍というよりは新たな可能性への探求に向きやすい)ため、INTJ,INFJ型が調査上少ないと言われるのも不思議ではない。

 

4.変化を求めるか安定を求めるか 恒常(J) ↔ 変化(P)

 J型は安定・秩序をもとめ、P型は変化・自由を求める。J型とP型はこの四基軸の中では最も決めやすいものの、分かりやすいがゆえに混乱が生じやすい部分でもある。理解すべきなのは、すべての基軸はあくまで総合的な判断であり、たとえば、完全にJ型である人間も、完全にP型である人間もいないということだ。人間である以上J型も飽きを感じることはあるし、P型も安定した生活を求めることはある。ただその両方を天秤にかけなければならないとき、安定を選ぶことが多いか、変化を選ぶことが多いかという傾向の差がJ型とP型の差である。他者を支配するタイプがJ型に多く、放任するタイプがP型に多いのは、生きる世界を整理するうえで、他者という不確定要素をそのままにしていられないのがJ型だからである。

 

 これらの基軸を本質的に理解していれば、例えばExxP型は(基本的にいい加減ではあるが)最も多様性を尊重する型であると分かる。ExxJ型は多様性を理解しているものの、それらを一定の仕方で管理せずにはいられないし、IxxJ型は最も多様性を忌み嫌う。そしてIxxP型は基本的に他人に関心がなく、自分の価値観を追求する、という風に大まかに理解できる。こういった判断は16タイプ別にそれぞれどのような性質を持つかで考えるよりも、そのうちの二つの基軸に注目して捉える方が捉えやすい。四つの組み合わせで考えると、どうしても複雑になってしまうから。

MBTIとはなにか (MBTIを考える - 1)

1.前提 - タイプ論

 MBTIのもととなったユングのタイプ論では、ものごとを認識したり判断するときに、人によって異なる機能を用いると考えた。ある人は、物の特徴を観察して捉え、またある人は、その印象を重視する。ある人は、感情に従って判断し、またある人は、思考に従って判断する。

 物事を認識する機能は、感覚か直観の二つであり、物事を判断する機能は、思考か感情の二つに分かれる。これらに、人間の本性的な外向性と内向性を加えると、人間のふだんの態度は、2×2×2、の8パターンに分類されると考えられる。

 そして、例えば思考機能を優先するひとは、その対極にある感情を、ないがしろにするか、抑圧してしまう。すると感情は未発達の機能として残ってしまう。逆に、感情を優先する人は、論理的思考が苦手なまま、大人になってしまう。そうした未発達な心理機能が、何らかの課題を引き起こすと考えた。その事実に自覚的になり、未発達な機能へ向き合うことを治療的課題としたわけだ。

 

2.前提 - MBTI

 MBTIではさらに、これらの二分法を発展させ、1.外向-内向 2.直観-感覚 3.思考-感情のセットに加え、外界への接し方(行為の傾向)である4.判断-知覚のセットを加える。機能ごとに別の傾向を持つとする発想は、理論をより分類的にしてしまうものの、かなり妥当なものに見える。ゆえにタイプは2×2×2×2の16タイプに整理される。

 

3.「補助機能」の問題点

 MBTIではすべての心的傾向を二分化するというアイディアと同時に、タイプ論の発想を継承し、人によってそのうちのどれかを主機能、補助機能として取ると考える。そのうえで、外向性や内向性といった方向性を、各人ではなくそれぞれの機能に個別に割り振り、「外向的思考」「内向的感情」のような心的機能が存在するものと見做す。これによって、ただでさえ曖昧な基準が、より曖昧なものになってしまう。物事を認知する機能と判断する機能の役割が本質的に異なることを考えれば、補助機能と言う発想は本質的におかしい。MBTIの本質であり最大の美点である、直截な二分法を見事に汚している。

 

4.「劣勢心理機能」の再解釈

 認識するための機能は、判断するための機能を補助などできない。判断するための機能は、認識するための機能を補助などできない。同じことは、認識するための機能同士についても言える、本来思考は感情を代替できないし、感情は思考を代替できない。

 思考優位の人は、感情が担わなければならない部分も、思考に任せてしまう。ゆえに問題が生まれているわけだ。それらは代替ではなく、あくまで代償だ。すべての心理機能は、本来補助不可能、代替不可能なのである。

 つまり思考機能優位の人間は、感情そのものの取り扱いが未発達なままであり、感情優位の人間は、思考の取り扱いが未発達のまま残るのである。直感優位の人間は、観察を十分にしないし、観察優位の人間は、それがどのように機能するか、全体像への理解が足りないのである。

 問題はいつでも未熟な機能に現れる。感情機能が優勢な人間は、感情機能が優勢であることのメリットよりも、それによって論理がないがしろにされ、例えば論理的にデメリットばかりの覚せい剤に、感情的に手を出したりしてしまう、といった問題に悩まされる。

 そしてまた、劣勢機能は単純に不得意な分野として現れる場合のほかにも、優勢機能への不安が起こった時に稚拙に頼られる機能でもある。例えば内向的な人間は、普段は自分自身の世界を生きているものの、自分自身への不信感が起こった時に、他人を稚拙に頼る。その頼り方が稚拙であるゆえに、問題を生じさせる。

 劣勢機能は誤って求められるのではなく、必要に応じて求められる。結局の所、人はいくら不愉快であっても、その両輪を使わねばスムーズに生きていくことができない。感情優位であっても、論理を使わねばならない場面があるし、可能性志向であっても、現実の決まりに従わないといけない場面がある。自らのアイデンティティの確立が青年期という第一の課題なら、アイデンティティからの解脱こそが、壮年期の第二の課題であると言える。長所だけを伸ばしていくことで社会的に成功し得るとしても、人性的課題として、その不愉快さと向き合うことは絶対的に必要になってくる。

 

5.抑圧

 ユングはアニマーアニムスという概念を創案している。男は女として生きる可能性を抑圧し、女は男として生きる可能性を抑圧する。人の中には、「自分ではないもの」の意識が強く刻み込まれている。

 概して言えば、抑圧の理論とは、すべての人間はどう転んでも不可能なこと、問題を抱えて生きていくものだという理論であり、同時にMBTIの理論は、人間はどのような性質を取ろうが、完璧な性格にはたどり着けず、何らかの欠点を抱え続けたまま生きなければならないということを示唆している。自己実現という発想は、この理論が本質的に抱える不可能性を前提にするならば、はっきり言って楽天主義がすぎる。

 抑圧の発想を仮にとある方向性で発展させるならば、全ての性格は、生来的な性質の発露というよりも、抑圧の度合いによって考えることができる。たとえばI⇔Eのセットは、Eを、Iの挫折と考え、Iを、Eの挫折と考えることができる。これは、女性であること、を男性であることの挫折と考え、男性であること、を女性であることからの挫折であると考えられるのと同じである。自然な発露としての性格と、それ以上に抑圧の結果として生じた性格の分別は不可能だ。ただし、そこには、それら二分化された性質の中には、非対称なペアの存在が考えられるということの示唆がある。つまり、本来すべての人間がI型ならば、E型はI型の挫折としてしか考えられない、というように。

 もし人が社会的に求められるものをもとに人格を形成するものだと認められるのであれば(もちろんそんな単純なものではないが)すべての性格型はENTJ型からの何らかの挫折と言っていい。ENTJ型は、現代社会が理想像として描き出す性格型そのものだからだ。

 

6.MBTIの有用性

 以上の通り、カラフルな色がすべて三原色で表現されるように、MBTIは人間のいろいろな性格を、4つの傾向で説明できると考える。それによって人の性格を理解することができ、とくに人と人の間で、どのような違いが、その関係を作り出しているか、洞察することが可能になる。同時に観察対象を自分自身に向ければ、なぜ自分はこれが不得意なのか、得意なのか、自分はどのような点において未熟なのか、といった洞察を加えることができるようになる。

うっとりと語るということ

最近になってふいに、自分の詩に柔らかさを感じるようになってきた。

そうとは思わず書いているのに、自分の詩が柔らかくなってきてうれしい。

誰かに、理解される、かどうかは別問題だけど。

夏が終わっても
空の青はなくならない
透明な朝はなくならない
飲み水の屈折もかわらない

 

今だって一人のつむじ風がはだかになって
死の世界を嬉しそうにとびまわっている
心の存在しない世界をみるときにだけ
人は本当の心をみることができる

 

なんて並列なんだろう
死と生は
全く違う時間を持つものたちが
同じ空間を分け合っている

昔から書いていることだけど、

中原中也は天使のように、と書いていたけれど、

本当の言葉を話すときには、

関係意識が吹っ飛んだ次元で、

うっとりと語る、言葉が必要になる。

と、僕は、思っている。

うっとりと語ること、無責任に語ること、

自分を非関係の方へ失うこと、

ディスコミュニケーションの徴

 母語が異なる人間同士では、真のコミュニケーションは結局の所できない、というような言説があるが、それは本来の人間関係のディスコミュニケーションが強調されているだけだ。音楽や文学、あるいはカウンセリングの場を見れば、日常レベルで交わされるコミュニケーションなどたかが知れている、誤解の温床だと思われるが、結局それもまた、本来的な誤解の強調に過ぎないのであって、コミュニケーションというものの、真実の姿をあらわしているに過ぎない。コミュニケーションという幻は、コミュニケーションへの信仰そのものによって、高度な次元へ移送されていく。より高度な次元でのディスコミュニケーションを明らかにしなければ、結局の所、コミュニケーションは"部分的に"不可能だという虚構のための真実に陥ってしまう。

 性的関係への希求は、本能的与件、その構造を頼ること、を本質とする。性的関係は、唯一意味を持たない関係だが、意味の代わりに価値を持ち、そして、それがあまりに強烈だ。他の関係には持ち得ない肉体レベルの興奮や快楽が、その関係が頼るにふさわしいものだと信じられる根拠になる。だが一方で、それは意味を持つことができない。意味を持たないというのは、予測を元本とする、思考という構造において、予測に繋がらないということである。精神的に婚姻というものが、法的拘束力を差し置いてまで重要に振る舞うのは、性的関係が意味を持てないことの反動だと喩えてみたくなる。

 性的関係が破滅的に振る舞う典型的な構造は、意味、予測への希求が、確かなものを求め、価値という代替物を頼る形で現れる。価値は価値を求める限りで得られるならば、きっと純粋に素晴らしいものに違いないが、意味を求めている者が代替物として手に取る場合には、「確からしく見えるのに意味を齎さない」いわば偶像のような、考えられる限り最悪の対象へと成り代わる。

 ここには二つの幻が現れている。一つはコミュニケーションという幻であり、もう一つは、価値を意味のように考えることの幻である。価値の「刹那さ」は、その事実がはっきりと認識されていない限り、破滅的な構造を呼び起こす。皇帝のものは皇帝に、酒は酒屋に、意味は意味に、価値は価値によって求められる必要があり、意味だと思って価値を手に取ったり、価値だと思って意味を手に取るところに、つまりその錯誤に、幻は――つまり愚かさが――ある。

 性的関係という価値の体系は、価値を基準に幻の意味を持ち始める。幻の意味とは、性的力である。性的力とは、人間関係における、力そのものである。人間関係における力とは、能力である。能力とは、人間のコミュニケーションの本質がディスコミュニケーションであるという事実を裏付けるところの、徴、あるいは証である。

僕は、

  精神薬を飲んだ患者の脳波が異常な形をしていて驚いた、というツイートをついこのあいだ見た。一種のプロパガンダのようでもあり、真相は不明だが、さもありなんと僕は思った。不安を感じて当然であるという状況にあって、薬によって安楽を感じていられるという狂気を思うと。

 僕は、という一人称を使うと、あの頃の自分の文章が突然顔を現す。部分的にではあれ、アルバイトをし、映画の塾のようなもの、に通っていた当時には、そうして自分を対象化していたわけだ。だから文章が客観的になる、客観的になることは、可読性にとって何より重要なことだ。僕の文章が一気に読むに堪えないものになったのは、「僕は、」と書き始めることをやめたときだった。

 以前にも書いたことだが、僕は、最近深く考えることをやめてしまった。もちろん、当時考えていたことが自分の中で駆動し続けているのだが、新しい考えが生まれているという感覚はない。当時は硬質だったそれらの考えが、なんどもなんども回されて、今、僕の中で柔らかくなっているのを感じる。

 最近は、英語の勉強を一日六時間くらいしている。その過程の中には、どんなドロドロとした感情も、思考も、想いも、ありはしない。つまらない人間が、一日六時間勉強をしている。行為者の特徴は、つまらないことだ。僕は、また、アルバイトを初めて、金を貯め、どこか遠くへ行きたいと、思っている。しかし、当時のように、思考者が社会を見に行くという形ではなく、僕自身もまた、行為者の一人として。思考者としての僕も、詩人としての僕も、いなくなりはしないだろう、でも、表に顔を出すことは少なくなるんじゃないかと思っている。

 今日は目が覚めてから、いまいちやる気がでず、朝からやる予定だった勉強をすっぽかして、七時間もさぼってしまった。これから猫に餌をやり、そうしたら今やっている文法の勉強を始める。僕は、つまらない行為者になる。最底辺の、行為者になる。

10時間たっぷり寝て、午前0時ごろ起き出した。

今取り組んでいる英語の勉強をしようと思ったが、今ひとつやる気が出ず。

ネットサーフィンをしたあと、シャワーを浴び、

そのあと、ふと、このブログを読み返していた。

このブログには2017年、2019年、2021〜現在、という三つの期間がある。

読み返してみると、一番面白い、読み物として価値があるのは2019年の一連だ。

論理でなく、直感で書いているけれども、詩になっている。

2019年の記事が終わり、2021年に差し掛かると、

突然原始仏教にハマっている世俗的で面白くない自分に出会う。

読み返してみて、どうしてそんな落差が生まれたのかと考えてみると、

2019年の自分は、「女」をテーマにしていたからだと思う。

女、少なくとも男にとっては、

どうしようもなく、それこそが、詩、思想の土壌なのだと思う。

2019年、書くことをはたと止めて以来、(時折顔を出していたとはいえ)

自分は、どこまで意識的であったか、女というものをタブーにしてきた。

しかし本来、掘り出して面白い土壌、その価値がある領野というのは、

要するに、自分にとって本当に重要なものが隠れている対象というのは、

女というものではなかったのか。