tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

ディスコミュニケーションの徴

 母語が異なる人間同士では、真のコミュニケーションは結局の所できない、というような言説があるが、それは本来の人間関係のディスコミュニケーションが強調されているだけだ。音楽や文学、あるいはカウンセリングの場を見れば、日常レベルで交わされるコミュニケーションなどたかが知れている、誤解の温床だと思われるが、結局それもまた、本来的な誤解の強調に過ぎないのであって、コミュニケーションというものの、真実の姿をあらわしているに過ぎない。コミュニケーションという幻は、コミュニケーションへの信仰そのものによって、高度な次元へ移送されていく。より高度な次元でのディスコミュニケーションを明らかにしなければ、結局の所、コミュニケーションは"部分的に"不可能だという虚構のための真実に陥ってしまう。

 性的関係への希求は、本能的与件、その構造を頼ること、を本質とする。性的関係は、唯一意味を持たない関係だが、意味の代わりに価値を持ち、そして、それがあまりに強烈だ。他の関係には持ち得ない肉体レベルの興奮や快楽が、その関係が頼るにふさわしいものだと信じられる根拠になる。だが一方で、それは意味を持つことができない。意味を持たないというのは、予測を元本とする、思考という構造において、予測に繋がらないということである。精神的に婚姻というものが、法的拘束力を差し置いてまで重要に振る舞うのは、性的関係が意味を持てないことの反動だと喩えてみたくなる。

 性的関係が破滅的に振る舞う典型的な構造は、意味、予測への希求が、確かなものを求め、価値という代替物を頼る形で現れる。価値は価値を求める限りで得られるならば、きっと純粋に素晴らしいものに違いないが、意味を求めている者が代替物として手に取る場合には、「確からしく見えるのに意味を齎さない」いわば偶像のような、考えられる限り最悪の対象へと成り代わる。

 ここには二つの幻が現れている。一つはコミュニケーションという幻であり、もう一つは、価値を意味のように考えることの幻である。価値の「刹那さ」は、その事実がはっきりと認識されていない限り、破滅的な構造を呼び起こす。皇帝のものは皇帝に、酒は酒屋に、意味は意味に、価値は価値によって求められる必要があり、意味だと思って価値を手に取ったり、価値だと思って意味を手に取るところに、つまりその錯誤に、幻は――つまり愚かさが――ある。

 性的関係という価値の体系は、価値を基準に幻の意味を持ち始める。幻の意味とは、性的力である。性的力とは、人間関係における、力そのものである。人間関係における力とは、能力である。能力とは、人間のコミュニケーションの本質がディスコミュニケーションであるという事実を裏付けるところの、徴、あるいは証である。