tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

僕は、

  精神薬を飲んだ患者の脳波が異常な形をしていて驚いた、というツイートをついこのあいだ見た。一種のプロパガンダのようでもあり、真相は不明だが、さもありなんと僕は思った。不安を感じて当然であるという状況にあって、薬によって安楽を感じていられるという狂気を思うと。

 僕は、という一人称を使うと、あの頃の自分の文章が突然顔を現す。部分的にではあれ、アルバイトをし、映画の塾のようなもの、に通っていた当時には、そうして自分を対象化していたわけだ。だから文章が客観的になる、客観的になることは、可読性にとって何より重要なことだ。僕の文章が一気に読むに堪えないものになったのは、「僕は、」と書き始めることをやめたときだった。

 以前にも書いたことだが、僕は、最近深く考えることをやめてしまった。もちろん、当時考えていたことが自分の中で駆動し続けているのだが、新しい考えが生まれているという感覚はない。当時は硬質だったそれらの考えが、なんどもなんども回されて、今、僕の中で柔らかくなっているのを感じる。

 最近は、英語の勉強を一日六時間くらいしている。その過程の中には、どんなドロドロとした感情も、思考も、想いも、ありはしない。つまらない人間が、一日六時間勉強をしている。行為者の特徴は、つまらないことだ。僕は、また、アルバイトを初めて、金を貯め、どこか遠くへ行きたいと、思っている。しかし、当時のように、思考者が社会を見に行くという形ではなく、僕自身もまた、行為者の一人として。思考者としての僕も、詩人としての僕も、いなくなりはしないだろう、でも、表に顔を出すことは少なくなるんじゃないかと思っている。

 今日は目が覚めてから、いまいちやる気がでず、朝からやる予定だった勉強をすっぽかして、七時間もさぼってしまった。これから猫に餌をやり、そうしたら今やっている文法の勉強を始める。僕は、つまらない行為者になる。最底辺の、行為者になる。