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考えたこと、詩、などを書く。

MBTIとはなにか (MBTIを考える - 1)

1.前提 - タイプ論

 MBTIのもととなったユングのタイプ論では、ものごとを認識したり判断するときに、人によって異なる機能を用いると考えた。ある人は、物の特徴を観察して捉え、またある人は、その印象を重視する。ある人は、感情に従って判断し、またある人は、思考に従って判断する。

 物事を認識する機能は、感覚か直観の二つであり、物事を判断する機能は、思考か感情の二つに分かれる。これらに、人間の本性的な外向性と内向性を加えると、人間のふだんの態度は、2×2×2、の8パターンに分類されると考えられる。

 そして、例えば思考機能を優先するひとは、その対極にある感情を、ないがしろにするか、抑圧してしまう。すると感情は未発達の機能として残ってしまう。逆に、感情を優先する人は、論理的思考が苦手なまま、大人になってしまう。そうした未発達な心理機能が、何らかの課題を引き起こすと考えた。その事実に自覚的になり、未発達な機能へ向き合うことを治療的課題としたわけだ。

 

2.前提 - MBTI

 MBTIではさらに、これらの二分法を発展させ、1.外向-内向 2.直観-感覚 3.思考-感情のセットに加え、外界への接し方(行為の傾向)である4.判断-知覚のセットを加える。機能ごとに別の傾向を持つとする発想は、理論をより分類的にしてしまうものの、かなり妥当なものに見える。ゆえにタイプは2×2×2×2の16タイプに整理される。

 

3.「補助機能」の問題点

 MBTIではすべての心的傾向を二分化するというアイディアと同時に、タイプ論の発想を継承し、人によってそのうちのどれかを主機能、補助機能として取ると考える。そのうえで、外向性や内向性といった方向性を、各人ではなくそれぞれの機能に個別に割り振り、「外向的思考」「内向的感情」のような心的機能が存在するものと見做す。これによって、ただでさえ曖昧な基準が、より曖昧なものになってしまう。物事を認知する機能と判断する機能の役割が本質的に異なることを考えれば、補助機能と言う発想は本質的におかしい。MBTIの本質であり最大の美点である、直截な二分法を見事に汚している。

 

4.「劣勢心理機能」の再解釈

 認識するための機能は、判断するための機能を補助などできない。判断するための機能は、認識するための機能を補助などできない。同じことは、認識するための機能同士についても言える、本来思考は感情を代替できないし、感情は思考を代替できない。

 思考優位の人は、感情が担わなければならない部分も、思考に任せてしまう。ゆえに問題が生まれているわけだ。それらは代替ではなく、あくまで代償だ。すべての心理機能は、本来補助不可能、代替不可能なのである。

 つまり思考機能優位の人間は、感情そのものの取り扱いが未発達なままであり、感情優位の人間は、思考の取り扱いが未発達のまま残るのである。直感優位の人間は、観察を十分にしないし、観察優位の人間は、それがどのように機能するか、全体像への理解が足りないのである。

 問題はいつでも未熟な機能に現れる。感情機能が優勢な人間は、感情機能が優勢であることのメリットよりも、それによって論理がないがしろにされ、例えば論理的にデメリットばかりの覚せい剤に、感情的に手を出したりしてしまう、といった問題に悩まされる。

 そしてまた、劣勢機能は単純に不得意な分野として現れる場合のほかにも、優勢機能への不安が起こった時に稚拙に頼られる機能でもある。例えば内向的な人間は、普段は自分自身の世界を生きているものの、自分自身への不信感が起こった時に、他人を稚拙に頼る。その頼り方が稚拙であるゆえに、問題を生じさせる。

 劣勢機能は誤って求められるのではなく、必要に応じて求められる。結局の所、人はいくら不愉快であっても、その両輪を使わねばスムーズに生きていくことができない。感情優位であっても、論理を使わねばならない場面があるし、可能性志向であっても、現実の決まりに従わないといけない場面がある。自らのアイデンティティの確立が青年期という第一の課題なら、アイデンティティからの解脱こそが、壮年期の第二の課題であると言える。長所だけを伸ばしていくことで社会的に成功し得るとしても、人性的課題として、その不愉快さと向き合うことは絶対的に必要になってくる。

 

5.抑圧

 ユングはアニマーアニムスという概念を創案している。男は女として生きる可能性を抑圧し、女は男として生きる可能性を抑圧する。人の中には、「自分ではないもの」の意識が強く刻み込まれている。

 概して言えば、抑圧の理論とは、すべての人間はどう転んでも不可能なこと、問題を抱えて生きていくものだという理論であり、同時にMBTIの理論は、人間はどのような性質を取ろうが、完璧な性格にはたどり着けず、何らかの欠点を抱え続けたまま生きなければならないということを示唆している。自己実現という発想は、この理論が本質的に抱える不可能性を前提にするならば、はっきり言って楽天主義がすぎる。

 抑圧の発想を仮にとある方向性で発展させるならば、全ての性格は、生来的な性質の発露というよりも、抑圧の度合いによって考えることができる。たとえばI⇔Eのセットは、Eを、Iの挫折と考え、Iを、Eの挫折と考えることができる。これは、女性であること、を男性であることの挫折と考え、男性であること、を女性であることからの挫折であると考えられるのと同じである。自然な発露としての性格と、それ以上に抑圧の結果として生じた性格の分別は不可能だ。ただし、そこには、それら二分化された性質の中には、非対称なペアの存在が考えられるということの示唆がある。つまり、本来すべての人間がI型ならば、E型はI型の挫折としてしか考えられない、というように。

 もし人が社会的に求められるものをもとに人格を形成するものだと認められるのであれば(もちろんそんな単純なものではないが)すべての性格型はENTJ型からの何らかの挫折と言っていい。ENTJ型は、現代社会が理想像として描き出す性格型そのものだからだ。

 

6.MBTIの有用性

 以上の通り、カラフルな色がすべて三原色で表現されるように、MBTIは人間のいろいろな性格を、4つの傾向で説明できると考える。それによって人の性格を理解することができ、とくに人と人の間で、どのような違いが、その関係を作り出しているか、洞察することが可能になる。同時に観察対象を自分自身に向ければ、なぜ自分はこれが不得意なのか、得意なのか、自分はどのような点において未熟なのか、といった洞察を加えることができるようになる。