朝目が覚めると、今日は不思議に快活な気分でした。
ただどこか寂しい気持ちもあり、ウィキペディアで、
第二次世界大戦時のユダヤ人迫害について調べたりしていました。
快活な気分であっても、寝起きはゆったり過ごしたほうがいいと思いました。
コーヒーを入れたり、ほとんど何もしないところから始めたほうがいいと感じました。
しばらくウィキペディアで幾つかの記事を読んでいました。
夕方、ラカンの本を気まぐれにめくり、
それから、なんだか憂鬱な気分に入り込んでいきました。
穏やかながら、漠然とした不安に苛まれる時間が、そのときから僕を訪れました。
そこで述べられている一つ一つの事柄は理解できても、
全体として何を言いたいのか、僕にはつかめません。
それは、入門書や概説書を読んでも同じです。
ラカンの理論が、どのような射程・水準を持つものなのか、
まったくわからないまま、彼の一言に触発されて何か思いつかないかな、
というくらいの気持ちでときどきめくっています。
僕が「この世」を解明したいと思い始めるのは、
実生活上で「悔しい」と感じていることがあるなど、
何らかの欲望・感情を抑圧しているところに由来するのではないかと思われる点に関してです。
欲望に素直になるという言葉がありますが、欲望にまつわる自己欺瞞を見抜くことが
直接的には個人の営みの目的になるんじゃないかとやけくそになってきています。
世界史はWikipediaを覗いていただけで高校教科書はほとんど進んでいません。
しばらくバイトでもして社会の水に慣れてから、
夢である教師になるために再・大学受験しようかという気になっています。
(僕は四年前に大学を辞めています。社会に適応できなかったのです。)
これまでの問題意識の中から、今日は「どうして僕らは乳房に惹かれるのだろうか」と考えていました。
もちろん他の部位に強く惹かれる性癖もあろうと思いますが、僕は特に乳房に惹かれます。
こういう独白は嫌ですね、性的な嗜好はイメージとして強すぎるので、タブーとされるに値します。
だから、精神分析に興味があろうが、表に出すべきではありません。
乳房に惹かれるということは、精神分析学的に言えば、
乳房というものは、幼児期の被授乳体験の残滓である象徴
またそれは母親と同一であったときの充全感の残滓である象徴だから
だということになるのだと思います。
精神分析学的にそうではないのかもしれませんが、
とにかく僕はそう捉えて、さらに俗化して言い直したいと思います。
乳房に惹かれるということは、性的な意味での親密さに惹かれているのだと言える思うのです。
乳房にでなく、性的接触そのものに惹かれているのだと思うのです。
人間の特定部位に行為として接近することに惹かれているのだと思います。
乳房に惹かれることは、人間に惹かれることとはちょっと違います。
それは「性的」という場が、「愛」の場ではないことと同じ意味合いで言っています。
性的欲望の思い描く理想像は
僕らが互いに人間でない関係である
(「1/3」(2017.6)より)
性的対象である彼女を性的に見ることは暴力的です。
統合されたものをバラバラにすることが必要です。
あるいは彼女の思うこと考えることが手に取るようにわかることが必要です。
それらは同じものです。
どうしてもわからないという主体の存在を基礎付ける困惑を省くためには
「性的な暴力」(もちろん精神的な意味ですが)が必要です。
明日は、今日できなかったことをやろうと思います。
具体的には、世界史B教科書の15章と16章をもう一度読み通すことです。
明後日は、明日できなかったことをやろうと思います。
明々後日は、明後日できなかったことをやろうと思います。