tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

可能性というもの

 未来という希望。それは常に失望と隣合っている。だから今日の仕事中の僕なんか、帰ったらどうやって死のうか考えていた。昨日は朝五時に眠り、朝七時半に起きたから、全く寝なかったときより却って眠かった。可能性、それは失望を覆すためにはささやかすぎると思わないか。結局死にきれないという現実によって生き延び、生き延びることでやわらいだ失望の中に、可能性というもののささやかな価値はひょいっと顔を見せる。それを心から救済と呼ぶためにはまだ長い道のりが必要な気がする。

 最近友部正人のエッセイ集、「ニューヨークの半熟卵」を読み終えたあと、つづけて「生活が好きになった」を読んでいた。彼のエッセイはボブ・ディランの歌のように自分をどう見せたいかという水準での虚言で満ちている。だが、その虚言が現しだすものがあまりに素敵だから読者の側が折れてしまう。

 ここ一週間ほど歯が痛い。歯がではない。歯茎がである。前の藪医者で不完全な治療を施されていた前歯から菌が入り込み、もう三ヶ月くらい炎症を起こしていたのだが、ついに膿みはじめてしまったのである。

 この文章を書きながら歩いていると、ボブ・ディラン来日公演の広告を見つけた。彼は僕にとっての憧れ、ではなく、僕の憧れた友部正人の憧れた人、という妙な立ち位置だから、その存在を意識するだけで、何かこそばゆい気分になってしまう。僕の中で偶像としての友部正人が去勢されたのは、彼がカバーしていたブルース・スプリングティーンの「ジャージーガール」の原曲を聴いた頃からだった。彼の男性性が模倣として生じていることの発見。それが却って友部正人の振る舞い方を僕にとっての可能性と感じさせることになった。僕は不可能性を不可能性として崇めることで同一化する男性的なやり方を取れず、可能性へ引きずり下ろすことで同一化する女性的なやり方で振る舞ってきたんだなあと今書きながら思った。

 男性として十分に振舞えない僕の性向。稀に好きになる女の子と出会えても、その娘には大抵既にパートナーがいるし、いなくても僕を男性と見なしてくれない。将来僕が僕を培っていくことで状況は変わるかもしれない。でも、目の前に現れる不可能性との対峙はいつでも余りにもどかしい。可能性というものは、あまりにささやかすぎると思わないか。

 最後に書くような話題ではないが、最近コンビニで買う缶入りのコーヒーやカフェラテが結構美味い。コーヒーというより何かミルキーな別種の飲み物なのであるが、喫茶店で出てくる酸っぱくて少ないだけのあれより何倍も美味い。それにしても、最後に書くようなことではなかったが。