父親が、しんどい、しんどいと口癖のように言うようになった。自分は精神の病気だから、しんどい、でもやらないといけないと分かっているから、葛藤している、と言っている。これはとても面白い茶番だと思う。
やるべき対象である行為、それそのものは「すべき」である「望ましいもの」であるが、「なぜかわからないがしんどい(=病気)」からできないという構図が作り上げられている。
どこから来たのか理解不能な謎の病に苦しめられているせいで、「しんどい」
「しんどい」から、理想の自分であることができない。
でも実際は、理想の自分であろうとすること自体がしんどいのだ。
しんどいのが当たり前なのに、それを良いもの、理想のようにすえるから、なぜしんどいのかを自分では説明できない。
説明できないから、「しんどい」理由を他に求めることになる。
そこに「精神の病」という便利な概念が登場するようになる。
それ自体をしんどいものだと認めれば、
「自分はしんどいことはやりたくない、だからやらない」
と言い切ることになって、(少なくとも精神的な)葛藤は生じなくなるのに、
「本当は自分はやりたいのだ、でもなぜかわからないけどしんどいからできない」
と言い始めるのだ。
本当の葛藤は、「やりたくないのに、やらなければいけず、やっている」という状態にあるのであって、
「やるか、やらないか」という選択肢が生じているところに、葛藤の余地などないのである。
葛藤はいつでも悩みの原因であると勘違いしているものも多いが、
「自分は葛藤している」という、自分自身を苦しみと戦うヒーローのように仕立て上げる口実となることもよくあるのだ。
そういう理由付けをすることで、自分はただ「しんどい現実」を避けているのだという格好悪い姿をごまかそうとするのだ。
人間は本来格好悪いものなのに、どうしてその事実を認めようとしないのか。