tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

他者の二者関係

 朝六時起きなのに午前四時まで起きていて案の定遅刻した。憂うつな気分で駅のホームへ行ったら学生たちが並んでいてなんだか感動した。僕が真っ当に通り抜けられなかった学生生活という試練を当たり前のように通り抜けていく人たち。僕は今の、普通の人なら十分担える荷物をあまりに重いと不満をこぼす。遅刻しましたという連絡にさえ何か底しれない恐怖を感じる。詩を書けば詩はなぜか見事に的を外してしまう。

 今週の頭に書いた埠頭という詩は良かった。

 誰ひとり良い思いをしているものはいない。至福は地上で暮らす誰の側にもない。怯えや恥じらいは至福やそれに至る力を自分以外の誰かへ想定する水準で起こる、全存在的なへつらいのことである。

 享楽という用語を僕は乱暴に至福と置き換えた。なんでもよかったから。

 他者へ恐怖を抱くとき、漠然と想像される、具体的でない他者、(他人の顔、)しかしそれも象徴的他者などではないということは昨日の記事を経た以上当然わかって良いはずだ。象徴的他者というやつはそのようには現れない。要するに情緒というやつは、あまりに露骨な要求として生起する。その露骨さ。それ自身十分に露骨な言葉というやつが、あわててそれを覆い隠さねばならないほどの露骨さ。

 想像的他者へ抱く恐怖が、愛の不安に直接由来することは明らかである。愛の不安とは、主体が他者の二者関係から疎外されているという原不安に基づく不安である。秩序が根源的に齎すものは主体の他者性の断言である。象徴的他者は主体が他者であることを保証する、というよりもそれを強制する。(鏡像の喜び、それは大他者の望むとおりにあれるという幻想の喜びである。)だから想像的に生じる主体の他者との差異は純粋な他者からの理由なき疎外の言明として響く。被略奪の苦悩がまざまざと語るところの苦悩としての純粋に他者であることからの疎外感。同時に象徴的他者による主体の他者性の断言は、他者の主体性という発想を主体に齎す。それは二者関係という概念そのものに包含されることができない。なぜなら主体性とは二者関係からはみ出すもののことだから。主体性の想定は分化しえない。言うなればそれはある他者性を自分自身として空想的に受け止める方法でしか想定されない。だから二者関係という概念は主体性が空想的にさえ入り込めない純粋な他者の関係であり、主体は主体的関係を通じてそこへ入り込めているという幻想を得る。

 愛の不安が疎外の不安であるとき、それを人より強く感じるということは一体どういうことだろう?それはより実効的に主体が他者の要求を受け取れないということの不安であり、社交になれた人間がするような「他者の要求の生産」ができないということである。他者の要求は具体的な水準から抽象的な水準まで広がるが、結局のところは主体の推測に委ねられている。他者の要求を理解していると感じるとき、主体は不安から解き放たれている。他者が明らかすぎる要求をしていると感じられるときでも、それがそうであると推察することへの不安が生じること。この眠たさ。主体の価値判断が頼りなく感じられ、他者の価値判断がこの上なく強いものだと感じられること。裁くものの利。裁かれる心性。それは一体何なのか。これこそ他者の欲望の謎の問題であるが、他者の欲望とは果たして何か。それは存在しないのに想定されるものだ。それは欲望というより純粋な法である。想像的他者の様々な要求へ応じることができなくとも、法が行動規範を確立させている間、主体はそれを自らの価値判断の支えにできる。規範の未成立。主体は疎外を恐れているが、それは疎外が既にそれとして確立していることを直視しないということだ。疎外ははじめから起こっている。主体が他者であると断言されながら、想像的に他者であれないという虐待によって。そこにはどのような形でも手を取り合う仲間はいない。そこにあるのは想像的にこの被虐を他者へなすりつけこちらへ引きずりこもうという試みである。

 言葉が要求を嗅ぎだすためのよすがとして機能するところにコミュニケーションは存在する。コミュニケーションへの恐れは要求をそれ自体として嗅ぎとれないことへの恐れである。要求を嗅ぎ取れないことの深淵はあまりに大きく開いている。なぜなら想像的主体は他者の欲望に真向かうことができないからである。それは何かが欲望されているという予感としてしか主体を訪れない。この不安の告白。僕は不安なのです。あなたが何を考えているのかわからない。他者の要求を嗅ぎとることが、彼らの欲望の不在をきちんと徴示することへもし繋がり得たなら。僕はあまりに孤独に演じる。その身振りはいつでもオーバーリアクションである。幻想の舞台はあまりに放埒であり、現実の舞台はそれに比べればあくまで慎ましい。その慎ましさはコミュニケーションが要求の鎖に繋ぎ止められていることに由来する。その実効性よ。

 全存在的なへつらい、あなたは、いや、少なくともあなた方のうち誰かは、その力を持っている、つまり裁くところの力を、あるいは享楽に関わる力を。この被害妄想的幻想がどうして維持されるのかということ。それはつまり二者関係という主体を疎外するところの関係という幻想がトラウマ的に機能しているということであり、象徴的他者が主体に告げる君は他者だよという悲喜をそれぞれ伴う宣告を退けることができないからなのである。

 そして主体は純粋な他者であることを欲望する。というよりも、主体はあくまで他者の享楽に至ることを欲望する。心的現象とはあらゆる現象が享楽と関連付けられることの現象である。怯えや恥じらいについて、考えるときには他者の享楽は存在しないということについて考えることで、他者を観念的に去勢することがまずまず有効だ。それは幻想に由来しているということが観念的には理解される。

 この記事の題はもはや変えれないが、せめて最後にこう言おう、「他者の享楽は存在しない!」あるいは「他者は享楽していない!」これは要するに埠頭という詩が予め表現し終えていたことの説明であった。