tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

願望について

 すべてが苦だという発想は、原始仏教を他の諸宗教から切り離す唯一無二の美点だと僕は思う。というのも、宗教はそれがどれだけストイックに見えたとしても、根本的に甘いものだからだ。その甘さとは何かというと、すべてが願望に根拠付けられているということだ。

 苦行は苦を味わうために存在するのではなく、苦を乗り越えるために存在する。それをよりラジカルに表現するならば、苦を乗り越えられるという願望のもとに存在する。だから、表面的には禁欲的な苦行は、根源的には願望を禁じないことに由来している。

 願望という一語は、この世に存在する諸宗教の多様さを二つの基軸で評価する唯一の基準として機能する。横軸はその様相であり、縦軸はその苛烈さである。その基準は非宗教的な領域にも同様に適用できるから、そこで宗教というものは、異様な様相を持っていたり、あるいは苛烈さを持っている「願望に対するはぐれた態度」と定義されることになる。

 そこで重要なのは、けして願望そのものが多様であるわけではないということだ。多様性が生じるのは、願望に対する態度の次元においてであり、そのことを精神分析学はアイロニカルに洞察し、「防衛機構」などという概念を生み出したりしている。

 願望というものはどうして多様でありえないものなのだろうか。それは低次元といえる本能的与件、その条件に直接的に由来しているからだ。欲求というものが一次的な価値、つまり意味に先行する価値を措定するとき、願望は欲求が与える快楽、あるいは苦の緩和(それらはその次元では差を持たない)が、永続的でありえないことに由来する。

 願望とは何か、それは一時的でしかありえない満足を、永続的に得たいと欲することである。この定義において、願望は呪われた出自を持っている。つまり、最初から破綻している。なぜなら原始仏教が唱える通り、諸行はすなわち無常だからだ。

 「生きることはすなわち生理的な苦しみとの戦いである。」という事実を、願望はこうすり替える。「生きることは生理的な苦しみを”超越するための”戦いである。」と。

 辿り着けないゴール。もし彼が「人生は果てしない」と感じるなら、そこには願望という名前の愚かさが存在している。なぜなら人生とは元来、「果てのある」水準での揺れ動きだからだ。満たされない空腹はなく、止まない雨はない。そこに願望という名前の愚かさが滲入してくると、「空腹は満たされない」「雨は止まない」という論理的な転換が起こってしまう。なぜなら腹はいつかまた空くし、雨はいつかまた降るだろうからだ。それこそが、いつまで経っても実現しない「願望というものの論理」なのである。

 表題に戻ろう。我々がどう生きるかという疑問にぶつかったとき、まず第一に言えることは、「願望は叶わない」と知ることだ。それはすなわち、先に述べたとおり、「生きることはすなわち生理的な苦しみとの戦いである」という水準に立ち返ることだ。苦しみを感じたときは、どのような「生理的な」苦しみがその影に存在しているか問うようにすることだ。生理的な欲求がすべて満たされているのに、なお苦しみが存在しているとしたら、その苦しみの原因は、他でもない「愚かさ」であることが分かるだろう。

 生理的な水準は、その条件を内部に隠している。ある程度は科学によってベールを剥がされてきているが、空腹感や眠気がどのような条件で自分を訪れているのか理解することは難しい。だから生きていると、生理的な条件に振り回されているように感じ、自分というものが頼りなく感じられてくる。

 ここで、どう生きるかという問題に対する回答を述べよう。それはつまり、生理的条件を見張り、それを主体的に管理するということだ。苦しみを何らかの方法で超越することでなく、出来る限りの方法で具体的に減らせるように心がけ、考え、暮らしていくということだ。

 そこで重要なのが、願望を捨てるという発想だ。願望はいつでも、苦しみを乗り越えることができるという無根拠で詮無い行為に人を巻き込んでいくからだ。重要なのはより直接的に苦しみと向かうことなのであって、どうあって欲しいかという妄想によって無為な行為に身をやつさないということなのである。

 生というものが、生理的な水準で彼に与える謎のなかで、最も大きな謎は、性欲として訪れる。それは猿や鹿やペンギンといった動物が社会を築き上げているのを知り驚嘆するのと同じくらい、自分自身に対する畏怖に近い困惑をもたらすものだ。性欲とは何で、なぜ生まれるのか。男女問わず、それは大きな謎である。

 その謎は謎によって、より大きな謎になる。本能的水準、与件である水準と、後天的に培われた水準が、どこに境界線を決めればいいのか分からない複雑さで顕現することになる。その境界線を探るために必要なのが、欲求は一時的なものを目標に据え、願望は永続的なものを目標に据えるということの理解だ。

 性欲というものを紐解いていくとき、それが一時的な目標を持っている限り、それは与件、避けられないもの、というより避けるべきでないものとして存在していると言うことができる。対してそれが何か永久的にそうであってほしいという目標を持っているならば、それは退けねばならないもの、願望だということができる。

 具体的に言って、人を恋するということがかなり一時的な水準にあるのに対して、その人と付き合いたい、結婚したいという思いは、永続的な目標に近いということが分かるだろう。そういった表面的な区分けをかき分けていくと、人を純粋に本能的に恋する水準と、そうではなく願望的に恋する水準とが区分けされていく。それは具体的にはあまりに多様に展開するので、思想によって抽象的に紐解くことはできない。真理というものは、本の中ではなく、その場で生成される。そのためにできることは、ただ、願望に気をつけるということだ。

 ただし一つ、この発想を刹那主義と誤解してはいけない。なぜなら刹那的でもなく、妄想的でもない態度が、一時的なものとの最善の関係だからだ。目の前で人が美味しいケーキを食べているとき、刹那的な発想からそれを奪い取ろうと考える場合、あるいは美味しいケーキがあったらなあと想像する場合、そしてまた、美味しいケーキを手に入れるための具体的な方法を考え始める場合、どれが一番適切な態度だろうか。刹那主義とは、願望が叶わないことに対する不満が呼ぶ自暴自棄な態度に他ならない。

 ここまでに述べたことをずっと単純な言い方で言うならば、よりシンプルに生きるということを志そうという提案になる。シンプルな、というのは、一時的なものとの関係に最大限気をつけ、永続的なものへの願望を最小限にしようということだ。

 このような言い方が、いわゆる禅というものの二極端を示すことに気がつくだろう。ある禅師はスケジュールをきっちりと決め、一日の大半を座禅に費やし、これこそが悟りだと述べる。一方ある禅師は酒を飲み肉を食し、奔放に生きているように見える。願望というものを基準にするとき、僕は後者の生き方を強く支持することになる。

 それが一時的なものだと感じられるなら、それと折り合いをつけられるよう関係を持ち、永続的だと感じられるなら、それと関係を築かないようにする。それこそが、僕が「どう生きるか」についてこの十年考え続けてきたことへの結論である。このシンプルな結論は、しかしながら実生活上に浮かび上がるいろいろな曖昧さを消滅させる。例えば人間に宗教が必要だというような妄言は、この思想のもとに立ち消えてしまう。