tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

精神に性別など存在しない

 ある特定の態勢に対する性同一性障害などという名付け方は、精神に性別があるという前提で語られているけれど、精神には性差はない。身体の性差という特徴が、関係的に精神を形作る過程で、性別意識が生まれてくるのだから、精神的な男性とか、女性という慣例的な言われ方というのは、女性的な、男性的な、といういい加減な言い方に過ぎないのであって、身体が男性として生まれてきたとき、女性として生まれてきたときに、大勢として取りやすい発達過程、その精神的態勢の類型を漠然と示したものにそもそも過ぎない。身体が男性であっても、女性であっても、精神は性別のない、ただの一個人だ。それは本人が、自分が男性である、女性であると思っていても揺るがない事実である。自分の身体を見て、自分には陰茎などあるはずがないのに、と言って泣いている赤ん坊がいるだろうか。性差意識というのは、あくまで発達過程の中で、関係的に形作られていく意識である。

 男性に対して女性の身体像が刺激的であるといった状況は、その極めて始原的な水準においてだが、本能的に与えられているものである。というのはそれが人間性において言語的に複雑化、俗に言えば倒錯していく前の水準がそこにあると見なされるという意味でだ。言葉を持たない動物がどのように性生活を持っているか見れば、そこに本能的なものがないとは言えないはずだ。そして人間がそこから唯一逃れ得ているという幻想もありえない。だが一般的に言われている、というよりもそこに観察できる通りの、女児が男児よりも精神的発達が早く見えたり、女性の言語能力が男性の言語能力よりも平均的には優れているといったリサーチなどの根拠については、先天的な脳の構造の差といった無根拠の断定をそのまま鵜呑みにすることはできない。女児の精神的発達がより早く見られるのは、母親に対する挫折が男児のものとは違い早いからだ。女児が異性愛を得るためには、母親を挫折することが必須だ。それは男児異性愛を得るために母親を挫折するよりもずっと早く訪れる。

 典型例は単純に、つまり典型的に現れるのに対して、稀少例は複雑に、いろいろな形で現れるため、概ね自らの性を肯いうるところの典型を示すようには、異性愛の典型例というのは示すことができない。ただし、男性の同性愛者を見たときに、例えばシングルファザーの家庭において、男児が母親に対して行う関係をそのまま父親に対して行った場合の同性愛的精神形成などのように、典型的な同性愛というものも存在はしている。とはいえLGBT問題が露骨に直面しているような多様性の問題が、いわゆる異性愛と同性愛の間に一枚の分厚い壁を見るのは必然だ。異性愛の中にも相当な倒錯はあり、中には衣服といった身体的な対象の延長線上にある無機物や、挙げ句は車やドラゴンに欲情するようなケースも生まれてくるのだが、そういった異性愛の末に生まれる倒錯よりも、同性愛という形の倒錯のほうが、実際的にもそうだが、初期発達的な倒錯であるという点で、より根源的である。簡単に言うならば、思春期に起こる倒錯より、幼児期に起こる倒錯のほうが根源的であり、幼児期に起こる倒錯より、乳児期に起こる倒錯のほうが根源的である。フロイトによって肛門期だとか口唇期などと呼ばれたたぐいの倒錯というのは、精神分析学はすべて性にこじつけるなどと言う一般的な考え方とは違って、いわゆる性差といった概念より始源的な倒錯を示すものであり、性差より根源的に人格形成を左右するたぐいのものである。ロリコンだとかいった性的倒錯というのは、ずっと後に形成される性格なのであって、性的嗜好の問題というくくりで、いわゆる同性愛などの問題と同列に扱うことはできない。

 今現在の社会では、精神的な性というミクロでは極めて素朴でありながら、マクロでは高度な発想が問題を単純で親しい水準から厄介で社会的な問題にすり替えてしまう。本来は手をつなぐことがなかったはずのソ連アメリカが、ただアンチファシズムの名のもとに繋がったような形の同盟が、アンチ異性愛者という名のもとで仮初の連帯を生んでいる。それがどんな実を結んだとしても、自らの解体の運命をはっきりと自覚していない限りただの災厄である。

 最後に、なにか具体的な言い方で言ってみるが、例えば女性の身体を持ちながら、男性という自覚を持つという状況や、その逆に男性の体を持ちながら、女性という自覚を持つという状況は、ただその素朴な発想が示すような身体と精神の性の二項対立の問題ではない。どちらにしろ、それは身体という精神にとっては未知のもの、底しれぬもの、なぜ与えられたかわからないものに対する、より一般的な態勢の問題でしかない。つまり自分の顔が嫌いだとか、自分の声が嫌いだとか言った、より一般的な自己嫌悪が、性差という概念にフォーカスされているという状況にすぎない。驚いたことに、ルッキズムなどという想像の外側から飛来してきた概念までこの状況には生まれてきてしまっているから、こう述べることはいささか難しくなっているのだが、それは対社会的問題であったとしても、社会的問題ではない。言い換えれば、それは社会に対する個人の問題であって、個人に対する社会の問題ではない。これは批判でも否定でもなく、太陽が地球の周りを回っているのか、地球が太陽の周りを回っているのか、を言っているのである。

 精神に性別など存在しないと同時に、というよりも、それゆえに、性格的な性別というのは、白いキャンパスに鮮やかな絵の具を載せるかのように、自然に形成される。なぜなら肉体は赤と青のように、明らかに二分化された男性という身体と女性という身体を持つからである。性差意識は、身体を愛することが核となり、生まれ育まれてきた意識である。

 楽天的な、というより、無知な発想では、自らの性格は自らの意志で形成されると思うかもしれないが、性格は外的な影響のもと、人の手で捏ねられる粘土のように形成されるものであり、だからこそその性格が苦しみを生みもする。だからこそ、女性的な性格は、”女性の身体”を愛する者による影響の下で育まれ、そして女性の身体を持って生まれたものがその影響を受ける。同時に男性的な性格は、”男性の身体”を愛する者の影響の下で育まれる。

 女性的身体には女性的性格が自然であり、男性的身体には男性的性格が自然であるという相当に粗暴な響きを持つ言説は、しかし目の前の現実に即している。ただしそれは広義の女性らしさ、男性らしさであって、より偏見や嗜好を含まない、誰もに普遍的な、つまり自然な水準での女性らしさ、男性らしさにとどまるものだ。男性が女性の身体を愛し、女性が男性の身体を愛するという前提は、少なくとも本能的水準に存在する。それはあくまで核として存在するに過ぎないが、その小さな核こそに、人間がこうして悩まされている。