tapanta

考えたこと、詩、などを書く。

要求と欲望について

 ようやく初給料かと思ったが、四日しか働いていないため支給が3万6千円、2万円が控除されていて振り込みは1万5千円程度しか残らなかった。始まった瞬間から終わっているのである。金がないのである。

 そんなことはどうでもいいが、どうでもよくないが、今はせっかくの休日を食い荒らす映画の学校の方の問題も実際的に大きい。人間関係の中で事あるごとに拡大されていく自分と健常者との差異があまりに億劫である。別に自分以外誰も気にしていないようなことなのだし、気にしなければ良いようなことを気にする性格のほうがもっと億劫なのである。

 今回はラカンの言う想像的他者というものと、象徴的他者というものについて。想像的関係とは、今抱いていると“想像”される関係そのものである。だからそれは、主体が自分は今このように過ごしていると想像するものの全体のことである。だから想像的な他者とは、他者と言った場合に“想像”される所謂他者そのもののことであって、現実的他者だの象徴的他者などは、そこに存在すると感じられるものとはなんの関わりも持っていないのである。つまりそれらは原型不明の、なにか抽象的なものであって、頭に身体像を思い浮かべ、「あ、他者だ」と呟くときのそれ、それは想像的他者そのものである。

 象徴的他者、それは名付け方があまりにまずい。それは頭に思い浮かべられるような他者とはまるきり違う。フィンクは親が象徴的他者の役割を担うなどと乱暴に書いていたが、象徴的他者との関係はいつでも内的であり、そこに親は同定されないのである。つまり親が同定されないことによって象徴的他者が生じるのである。欲望とは他者の欲望であるが、想像的他者ではなく、象徴的他者の欲望である。象徴的他者の欲望とは、要するに秩序のことであり、欲望とは他者の欲望であるという言葉は殆ど意味を持っていない。想像的他者との間で要求の関係を持つとき、その要求は想像的水準のすべての範囲を覆っている。言い換えれば、想像的関係においては欲望は姿を現さない。欲望が姿を現すとき、想像的な他者は、つまり所謂他者というものは、ほんの少しの重要性をも、もはや持ちえないのである。このとき象徴的他者と呼ばれてきたものが姿を現す。それは身体像とは関係を持たない。それは主体が法の名のもとで言葉へどうしようもなく縛られていることを徴示する。言い換えれば、それは語りが止まないと言うことであり、謎が謎として残るということであり、つまり謎の探求が探求として果てしなく続くということである。

 両親との関係は既に想像的な水準で繰り広げられているが、そこで象徴的水準というものが純粋に言語的に、つまり言語の性質において育まれることになる。他者の欲望。あるものは良い、あるものは悪いといった価値判断。コミュニケーションは想像的水準で機能しているが、意味は想像的水準でなく、純粋な言語的水準で機能している。その二重化に、大文字の他者というものが厄介にも他者と名付けられるところの根拠があるのである。つまり主体が何かを語るとき、意図しないものが伴う、それは無意識の意味である。正確には、意味とはいつでも無意識の意味のことである。それは主体の中の大文字の他者へのメッセージ、つまり純粋な象徴的メッセージである。母親にあることを要求して通用しなかったとき、父親に、ねえお母さんがね、と助けを乞う行為。そこには既に自分の正当性の仮定的な支えが存在している。仮定的な、というのは、この喩えの場合には父親という想像的他者の承認という本願を頼る支えだからであるが、このとき想像的な要求の水準を暮らすために育まれる、対象を持たない、自律した価値判断を見て取ることができるだろう。そこに本質的なものとして浮かび上がってくる正当性の保証への要求、つまり倫理的要求。それは想像的関係上では要求として現れる他ないが、欲望の姿を示唆している。欲望、価値判断の確立への欲望。価値判断が外的支えを頼らずに済むということへの欲望。さらに言えば、それは要求をせずに済むということへの欲望である。想像的関係を抜け出すということへの欲望である。そして、それは他者の欲望の同定の不可能性、つまり謎によって阻まれている。価値判断は他者に承認されるためのものであり、他者に支えられることをその本質としているからだ。

欲望の、つまり法の水準についてあまりに大まかに語ったが、重要なのはそれが起こるレベルについてである。フィンクは、自分の欲望について主体が語ることができるかのように語っているが、自分の欲望について語ることなどできない。それは他者の欲望だからである。他者の欲望を知ることができないのだから、他者の欲望である自分の欲望について語ることはできない。主体が自分の欲望の内容として何かを語るとき、それは常に要求の水準で語られている。そのことを強調せねばならない。欲望の問題だと感じられるような性関係の問題など、全て要求の水準で生じているものだ。性的欲望、そんなものはもはや言葉のあやとして語られうるに過ぎないのだ。

 今は仕事の間の昼休みで、7時間近く寝たため午前中はキビキビだったが、おにぎりを食べてこんなことを書いていたら眠くなってきた。午後の仕事はいつでも眠気との戦いである。これを避ける手段はあるのだろうか?

普段はおにぎりと一緒にピザポテトというポテトチップスを食べてきたが、今日は明治ミルクチョコレートである。話は飛ぶが、今まであまり飲んでこなかったコカ・コーラゼロを飲んでみたところ、後味がすっきりしていて普通のコーラより気に入った。糖分のベタベタ感がなくて良い。